第53号 真理への瞑想「精神的生き方」

  • 真理への瞑想……「精神的生き方」

 五感によって知覚される現象世界を超越し、超感覚的な宇宙的実在を直接的に経験(直覚)する努力を続けること、それが精神的な生き方です。

 宇宙的実在は糸の中にも、布の中にも存在します。粘土でできた器の、その土の中にも存在し、様々な金の装飾品の、その金の中にも存在しています。それらの中に、目に見えない源泉、中心、支え、私たちが永遠に求めているゴールがあります。一瞬一瞬の現象の中に永遠の実在があるのです。

 この実在とは油の種子の中の油です。ミルクの中のバターです。音の洪水の中にある静寂です。絵はキャンバスがあるから、そこに描かれ得るのであり、映画はスクリーンがあるから、そこに見ることができます。目に見えない実在が現象を支えているのです。

 宇宙的実在としての神はその微妙さゆえに、姿を隠しています。神は本来、ものの本質であり、もののエッセンスです。それ故に名前や形を持たないのです。ところが人間の心や知性はものの名前や形に基づいてのみ考えています。私たちの目で認識できるのは、大きさと形と色だけですが、それらを超えたところに、名前も形も色も持たない何かが実在しているのです。それはこの宇宙を支配する意識そのもの、法そのものとしての存在です。

 名前や形の世界、常に移り変わる無常の世界に隠れた、この永遠なる真理を得るために私たちは精妙な視覚を発達させなければなりません。そして精妙な視覚は、私たちの心や精神を純粋にすることによってのみ得られるのです。精神の精妙さが増せば、知覚もより深くなるのです。そのために私たちは精神的な生き方をしなければなりません。

 人間の全ての努力の目標は、平和と満足という至高の幸福を得ることにあります。これらは現象世界の方から私たちに与えられることはありません。精妙な精神によって知覚された、実在の世界の中に入ってはじめて至高の幸福を得るのです。私たちは宇宙的実在としての神を知ることによってのみ、それを敬うことによってのみ、その至高の喜びと平和を手に入れることができるのです。神を敬えば敬うほど、もっと神の存在に、そして現象世界(それも神が創られたものですが、)を支えている神の存在に気づき始めることでしょう。

 精神的な生き方とは、宇宙的な実在を深く敬う心の育成を意味します。そのためには神の名、または神聖な意味や響きのマントラ真言)を唱え続ける行法や、アーサナ、呼吸法、瞑想、聖典の勉強などが必要です。それらは環境や出来事に左右され、喜んだり嘆いたりしている、普通の人間としての性質から、高い境地へ脱却するための方法と言えます。

 私たちは日々の生活において十分慎重でなければなりません。話す言葉、行動、他人との関わり、その他全ての生活において慎重であることは精神性の開発を助けます。あなたの知識と理解力の全てを精神性の開拓に捧げるべきです。それは大いにあなたを変えることでしょう。宇宙的存在に対する理解はまず第一に必要なものです。二番目に理解を行動に変える賢さ、三番目は怠け心に対する忍耐力です。

スワミ・チダナンダ講話集ponder these truthsより要約

 

  • 解説・・・・・宇宙的実在と芸術

 芸術は常に現象世界の背後にあるものを見極め、そして表現しようと努力してきたと思います。芸術に親しみ、自らも芸術家であろうとする態度もまた、精神的な生き方であると私は思っています。芸術家は、ここに述べられるような宇宙的実在に対する理解を深める考察を行うべきでしょうし、ヨーガを実践する人も、芸術による表現を試みるべきです。なぜなら、宇宙的実在としての神は芸術的にしか表現できないからです。

1996年10月15日

第52号 背筋まっすぐ体操

  • 背筋まっすぐ体操

 姿勢の良さと健康は、切っても切れない関係にあります。そして姿勢を決定する最も重要な要素は、背骨とそれを取り巻く筋肉です。背骨を調整し、筋肉のバランスを維持するために「背筋まっすぐ体操」を毎日行いましょう。始めるに先立って、手首をよくほぐし、腕回しを前後20回ずつ行っておきます。

(この号はイラスト紛失のため、これだけしか掲載できません)

1996年10月10日

第51号 真理への瞑想「神の目には一人ひとりが唯一無二である」

  • 真理への瞑想……「神の眼には一人一人が唯一無二である」

 幸福に至る鍵は、幸福に気づくことにあります。今現在持っていないものや、持っていないと思いこんでいるもの、そして幸福以外のものに意識を向けるなら、あなたは、本当は既に持っている多くのものを見失ってしまうでしょう。

 神の眼には一人一人が特別であり、似たような二番目の存在などありません。ある時間と場所において、あなたが果たすべき役割は、神が与えたものであり、他の誰が代われるものでもありません。そして、あなたがその役割を果たすときに神は喜ばれ、あなたを祝福するのです。

 自分の役割を完璧なやり方でできるかどうかは、問題ではありません。神はあなたがその時、一生懸命であることを望まれるのです。これが真理です。この真理に目覚めることにより、あなたは悩みや心配から解放されるでしょう。そしてこの真理に目覚めたならば、自分の役割に一生懸命取り組むことがそのまま、神への奉仕であり、感謝であり、信仰であると知るでしょう。この真理に目覚めるとき、あなたは「私は神から完全に受け入れられている」という魂の安らぎを覚えずにいられません。

 神と同じ眼を持つ人々は、人に優劣を付けたり、裁いたりすることがありません。彼らは全ての人が唯一無二であり、神の前において平等であると知っているからです。

 神の無限の愛を信仰する人々、神の御心の中に特別な唯一の場所を持っていると確信する人々は、全てのことは必然的にそうなっているのだと信じています。神が天にある限り、地上は全てうまく行くと固く信じているのです。これこそが真の信仰です。

 このように理解すれば、あなたは大きな安らぎと、この上ない満足を得るでしょう。これが幸福と内なる喜びの秘訣であり、いらいらや動揺や疲れのない世界へ至る鍵なのです。この真理の光の中で心安らかに暮らしなさい。他人と比べることはありません。ただ一つしか存在しないものを比べようもないのです。赤ちゃんが、その親にとって唯一の存在であるように、全ての生き物は、神の子として唯一の存在なのです。

 神の愛を直ちに受け得ることを喜びなさい。なぜなら、神は遠い存在ではなく、あなたの内なる存在だからです。地球上の誰よりもあなたに近い存在です。神の平和があなた自身の魂として宿っていることを喜びなさい。あなたは神の平和そのものであり、それを実行する義務があります。あなたの内なる平和を全ての人に広げる義務があります。この平和を広めるために生きなさい。

スワミ・チダナンダ講話集ponder these truthsより要約

  • 解説

 今回から、インド、シバナンダ・アシュラムの総長、スワミ・チダナンダ師の講話録の要約をシリーズでお届けしたいと思います。

 インドでヨーガに一生を捧げる決意をし、先輩修行者からそう認定された人を「スワミ」と呼びます。スワミはオレンジ色の衣を常にまとい、独身を通し、アシュラム(僧堂)に住み、または遊行の旅をしています。シバナンダ・アシュラムは世界的によくその名を知られており、海外に多くのスワミを派遣しています。各スワミの名前の末尾は必ずアナンダと発音されます。ヨーガナンダ、クリシュナナンダ、ヴィヴェーカナンダといった具合です。アナンダ、またはアーナンダは「至福」や「歓喜」を意味します。そしてアナンダこそ人間の最も根本の性質であるとヨーガの哲学であるヴェーダンタ哲学は教えています。

 ヴェーダンタ哲学は神と人間の一元論を展開します。つまり神は人間の真我として宿り、同時に宇宙的存在でもあるという考え方です。ヴェーダンタ哲学を理解する上で「神」という概念は欠かせませんが、それは例えば自然の法則や、運命をつかさどる存在に対して、仮に「神」と名前をつけて人格化しているのだとご理解下さい。信じる、信じないと言う以前に、自然の法則は現に自然や私たちを支配し続けているわけですから、どうか「神」という言葉にアレルギー反応を起こさないようにお願いします。

1996年10月3日

第50号 バガバッド・ギーター 第18章(最終章)要約

  • バガバッド・ギーター……第十八(最終)章要約

 祭祀と布施と修行の行為は捨てるべきではない。それは行われるべきである。賢者たちにとって、祭祀と布施と修行は浄化するものである。5

 アルジュナよ、なすべきであると考えて、課せられた義務を、執着と結果とを捨てて行う場合、それは善性的な捨離であり、これを放擲(ほうてき)という。9

 行為の結果は、好ましくないものと、好ましいものと、両者が混じったものとの三種である。放擲しない人々は行為の結果を死後にも持ち越す。しかし放擲者の場合には、死後に行為の結果を持ち越すことはない。12

 人が果報を期待せず、執着を離れ、愛憎なく定められた行為をなすとき、それは善性的な行為と言われる。23

 また、欲望を求める者や、我執を抱く者が、非常に苦労して行為をなすとき、それは動性的な行為と言われる。24

 その行為の損失や加害などの結果や、自己の能力を無視して、迷妄によって企てられた行為は、暗性的な行為と言われる。25

 執着を離れ、自己を誇らず、堅固さと気力を備え、成功不成功に動じない者は善性的な行為者であると言われる。26

 激情的で、行為の成果を求め、貪欲で、加害を性とし、清浄でなく、喜悦と悲しみに満ちた者は、動性的な行為者と言われる。27

 専心せず、凡俗、頑固、狡猾、不実、怠惰、悲観的であり、仕事の遅い者は、暗性的な行為者であると言われる。28

 あなたが我執により、「私は戦わない」と考えても、あなたのその決意は空しい。武人としての性質(プラクリティ)があなたを駆り立てるであろう。59

 アルジュナよ、あなたが迷妄のゆえに、その行為をやめてしまいたくなっても、あなたの根本原質(プラクリティ)は否応なく、あなたにそれを行わせるであろう。60

 なぜなら、最高神は万物の心の中にあり、その幻力(マーヤ)で万物をからくり箱の上の人形のように踊らせるのだ。61

 全身全霊で最高神にのみ庇護を求めよ。アルジュナよ。その恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。62

 信仰を抱き、不満や妬みなく、この対話(バガバッド・ギータ)を聞くだけでも、人は罪悪から解放されて、善行の人々の静寂な世界に達するであろう。71

 アルジュナよ、あなたは一意専心して私の話を聞いたか。あなたの無知から生じた迷いは消え失せたか。72

 アルジュナは言った。

「迷いはなくなった。不滅の方よ。あなたの恩寵により、私は自分を取り戻した。疑惑は去り、私は立ち上がった。あなたの言うとおりにしよう。73」

 

  • 解説……からくり箱の人形

  こうしてついにアルジュナは王位奪回を掛けた親族同士の戦いに臨み、愛弓ガーンディーバを引くのです。61節にあるように、私たちはこの世において神に踊らされているのかも知れません。高い視点から、そのことを認め、自ら踊り子として最高の演技を目指すようギータは諭します。視点の低い無知な者は運命に気づくことなく、神の呼びかけに応えることができません。また我執の強い者は運命に抵抗して空しい努力をするのです。(おわり)

1996年9月18日

第49号 バガバッド・ギーター 第17章要約

  • バガバッド・ギーター……十七章要約

 人々の信仰は三種である。すなわち、善性的、動性的、暗性的な信仰である。2

 アルジュナよ、全ての者の信仰はその要素(グナ)に対応する。人間は、その信じるところに沿ったものになる。3

 善性的な人々は神々を供養し、動性的な人々は夜叉や羅刹を供養する。他の暗性的な人々は、餓鬼や鬼霊の群を供養する。4

 また、全ての者が好む食物も三種である。祭祀、修行、布施も同様である。7

 生命力、勇気、力、健康、幸福、喜びを増大させ、美味、油質で、腹持ちがよく、心地よい食物は善性的な者に好まれる。8

 過度に苦く、酸っぱく、塩辛く、辛く、刺激性で、油気がなく、ひりひりし、苦痛と憂いと病気をもたらす食物は、動性者に好まれる。9

 新鮮でなく、味を失い、悪臭あり、前日調理された、また食べ残しの、不浄の食べ物は、暗性者に好まれる。10

 果報を期待せず、ただ祭祀すべきであるとのみ考えて心を統一し、教令に示されたようにを行う場合、それは善性的な祭祀である。11

 一方、果報を意図して、偽善のために祭祀を行う場合、それを動性的な祭祀であると知れ。12

 教令に従わず、食物が配布されず、経文がなく、報酬が支払われず、信仰を欠いた祭祀、それを暗性的な祭祀と称する。13

 神々やバラモン、師匠、知者への崇拝、清浄、廉直、禁欲、不殺生、以上は身体的な修行と言われる。14

 不安を起こさせない、真実で、好ましい有益な言葉、及び、ヴェーダ学習の常修、以上は言語的な修行と言われる。15

 心の平安と清浄、温和、沈黙、自己抑制、以上は心的な修行と言われる。16

 人々が果報を期待せず、専心して、最高の信仰をもって三種の修行を行った場合、それを善性的な修行と称する。17

 接待、尊敬、崇拝を得るために偽善により行われる修行は、動揺し不確実であり、動性的な苦行と呼ばれる。18

 つまらない考えに固執し、自己を苦しめたり他者を滅ぼすために行われる修行は、暗性的な修行と呼ばれる。19

 善性的な布施は、場所と時間が適切であり、見返りが期待できない相手に対し、与えてしかるべきと考えて与えられる。20

 動性的な布施は、果報を意図し、見返りを望んで、渋々与えられる。21

 暗性的な布施は、不適切な相手に対して、不適切な場所と時間において、敬意を表さず、軽蔑して与えられる。22

 

  • 解説……布施

 布施と言えば法事、葬式の代金みたいに考えられ、動性的に受け渡しされることが多い昨今です。しかし元来、布施は金銭に限りませんし、儀式(祭祀)の時だけというものでもありません。18節にあるように、「場所と時間が適切であり、見返りが期待できない相手に対し、与えてしかるべきと考えて与えられる」のが本来の布施なのです。例えば、誰かと出会ったときにニコッと笑えば、それは立派な布施です。本当にそう思って誰かを褒めるとしたら、しかもその場所とタイミングが適切であれば、それも布施です。そう思えば私たちは毎日、家庭で、職場で、地域で、善性の布施をし続けることが可能です。その功徳は大変なものになるでしょう。中元、歳暮の類も布施ですが、動性、暗性の動機で贈られていないか注意したいものです。

1996年9月10日

第48号 バガバッド・ギーター 第16章要約

  • バガバッド・ギーター……第十六章要約

 この世界には二種の万物創造がある。すなわち、神的なものと阿修羅的なものである。神的なものはすでに詳しく説かれた。アルジュナよ、阿修羅的な者を私から聞け。6

 阿修羅的な人は正しい活動と、その停止を知らない。彼らには、清浄さも、正しい行動様式も、真実も存在しない。7

 彼らは言う。「世界は不真実であり、根底がなく、神もない。全てが愛欲から生じるのである。」8

 彼らはこの見解に依存し、自己を失い、小知であり、非常に残酷な行為をし、有害であり、世界を滅ぼすために出生する。9

 彼らは満たし難い欲望に耽り、偽善と慢心と酔いに満ち、迷妄のために誤った見解に固執し、不浄の信条を抱いて行動する。10

 「私は今日これを得た。私はこの願望を達成するであろう。この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。13

 私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。14

 私は富み、高貴な生まれである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。」

 彼らは無知に迷わされてこのように言う。15

 彼らは自惚れ、頑固で、財産におごり酔いしれる。偽善的に、正しい教令に因らず、名前だけの祭祀を行う。17

 彼らは我執、尊大さ、欲望、怒りを拠り所とする。妬み深い彼らは自己と他者の身体に真我として宿るこの私を憎んでいる。18

 憎悪する彼らは、残酷で最低の人であり、不浄である。私は彼らを輪廻において絶えず阿修羅的な胎内に投げ込む。19

 彼らは阿修羅的な胎に入り、生まれるごとに迷妄に陥り、私に達することができず、それから最低の結末である、畜生界に赴く。20

 欲望、怒り、貪欲。それは自己を破滅させる三種の地獄の門である。それ故、この三つを捨てるべきである。21

 

  • 解説……阿修羅

 私たちの周りには阿修羅的な人が結構いますし、テレビや新聞を連日騒がせているのも彼らです。阿修羅的な人は名声や富を求め、その欲求に正直に行動します。ただ、それが露骨にならないようなカムフラージュを忘れません。それを偽善といいますが、彼らはそれを善だと信じています。彼らは世俗的な意味で成功者と見なされますが、本質的には彼らは苦しみの中にいます。その苦しさを紛らすために、酒や遊びに耽ったり、仕事中毒になって行きます。彼らの心は動性優位であり、醒めた目を持つ人々、善性優位の人に敵意さえ示します。

 この世にいる限り、私たちはこの阿修羅的な人と多少は付き合わねばなりません。彼らは私たちの中にある阿修羅的な部分をめざとく嗅ぎつけ、近寄ってきます。また逆に、彼らに近づきたがるのも、私たちの中の阿修羅的な部分です。

 私たちは自分の中の阿修羅に気づいていなければなりません。それがどのように自分を行動させようとしているのかを、しっかり監視していなくてはなりません。それができるとき、私たちは阿修羅的な人々と付き合うことができ、場合によっては彼らに自らの阿修羅に気づかせることができるかも知れません。しかし、自信がないなら、彼らとは遠く距離を置くべきです。

1996年9月3日

第47号 バガバッド・ギーター 第14章要約

  • バガバッド・ギーター……第十四章要約

 聖バガバッドは告げた。

 私は更に知識のうちで最高のものである、至高の知識について説こう。それによって全ての聖者たちが、この迷いの世界から離れ、最高の成就に達したところの。1

 善性(サットヴァ)、動性(ラジャス)、暗性(タマス)という、根本原質(プラクリティ)から生ずる諸要素(グナ)は、不変の真我に肉体をまとわせる。5

 そのうち、善性は汚れないものであるから、輝き照らし、患いのないものである。それは人に幸福と知識をもたらす。6

 動性は激情を本性とし、渇愛と執着とを生ずるものであると知れ。それは、あらゆる行為を人にもたらす。7

 一方、暗性は無知から生じ、人を迷わすものであると知れ。それは、怠慢、怠情、睡眠を人にもたらす。8

 善性は幸福をもたらし、動性は行為をもたらす。一方、暗性は知識を覆って怠慢をもたらす。9

 善性が優位になるとき、動性と暗性は抑制される。動性が優位になるとき、善性と暗性は抑制される。そして暗性が優位になるとき、善性と動性が抑制される。10

 一切の感覚器官に知識という光明が生じる時、善性が増大したと知るべきである。11

 貪欲、活動、諸行為の企て、躁状態、切望などは動性が増大したときに生ずる。12

 無知、無活動、怠慢、迷妄などは暗性が増大したときに生ずる。13

 善性に依存する者は天界へ行き、動性の者は人間界に止まり、最低の要素(グナ)の活動に依存する暗性の者は畜生界に行く。18

 この善性、動性、暗性という三要素が人間における行為の源であり、知識ある者がそれらより高いところに位置する真我を知る時、彼は私(神)の状態に達する。19

 心身を生じさせるこれら三要素を超越した後、人は生老病死から解放されて不死に達する。20

 

  • 解説

 善性、動性、暗性という考え方については、是非理解して自分を顧みる際のものさしにしていただきたいと思います。

 例えば、瞑想中、眠くなるのは暗性が優位になっているときです。あれこれ雑念が渦巻いて、取り留めもない場合は動性が優位になっているときです。スーと気持ちよく、爽やかで、しかも精神統一されているときは善性優位のときです。

 ヨーガを続けていれば必ず善性が増してきます。時に暗性が増して、教室に出かけるのが面倒になったり、動性が増して、別な用事に振り回されることもあるでしょうが、ヨーガを続けようと言う気持ち自体が善性の発想と言えます。

 暗性優位になっている人は、だらだらと怠けることを好み、積極的であることを嫌います。そういう価値観をもっているので、善性、動性的な態度を憎みさえします。動性優位になっている人は、自らを急き立て、いつも忙しそうにし、働くこと、ものを蓄えること、遊ぶこと、食べること、そして名誉などに執着し、そういう価値観から全てを判断します。善性優位の人は心にゆとりを持ち、生活は規則正しく、よく義務をわきまえ、無駄な行動を慎みます。

 しかし、ギータはこの善性、動性、暗性も私たちの属性に過ぎないと諭します。それらを超越し、本性である真我に目覚めよと言います。真我に立脚するとき、自分の中の善性的な働きも、動性、暗性的な働きもつぶさに見ることができます。その時、あらゆることに洞察深くなり、智慧に満ちるのです。

1996年8月22日