第46号 バガバッド・ギーター 第10章要約

  • バガバッド・ギーター……第十章要約

 クリシュナは告げた。

 アルジュナよ、更に私の最高の言葉を聞け。私はあなたの幸せを望んでいる。そしてあなたは私を愛している。だからあなたにそれを語ろう。1

 神々の群も偉大な聖者たちも私を本源としている。2

 私が不生であり、無始であり、世界の偉大な主であると知る人は、この世にあって迷わず、全ての罪悪から解放される。3

 知性、知識、不惑、忍耐、真実、制御、寂滅、苦楽、発生、消滅、恐怖、無畏、4

 不殺生、平等心、満足、苦行、布施、名誉、不名誉。これら万物の個々の状態は、ただ私のみから生ずる。5

 私のこの創造の力を如実に知る者は、ヨーガの力により私と結ばれる。この点について疑いはない。7

 私は一切の本源である。一切は私から展開する。そう考えて、智者たちは愛情を込めて私を信愛するのである。8

 私に心を向け、命を私に捧げ、互いに目覚めさせつつ、智者たちは常に私について語り、満足し楽しむ。9

 常に私に帰依し、喜びをもって私を信愛する彼らに、私は知性のヨーガを授ける。それにより彼らが私に至るところの。10

 まさに彼らへの憐れみのために、私は彼らの真我として彼らに宿り、輝く知識の火により、無知から生ずる闇を滅ぼす。11

 

  • 解説

 クリシュナは自らを神と呼び、自分への帰依を促します。しかしそれは新興宗教の教祖的な存在とは違うようです。世の教祖たちはしばしば人々を不安にさせて、自分または自分の教団への帰依を強く促す術を心得ています。これは要するに人間が根本的に抱える弱みにつけ込む方法です。教祖たちに限らずこの手を使う悪徳の輩は大勢います。術と心得て人を陥れるのは本当の悪徳ですが、自分に注意を引きつけようと無意識的に人を不安にさせるのは無知のなせることです。

 智慧ある良き人は、病気や死、頼っているものを失うことへの不安などに対して、おまじないやお守りや儀式ではなく、分かりやすい言葉でしっかり理解に導き、常に人に安らぎと安心感を与え、決して見返りを求めません。自ら教団を作ろうとしたり、教えを押しつけようとしたりせず、来るもの拒まず、去るもの追わず、言葉は穏やかで、生活は質素です。

 宗教は人に倫理と信仰心を植え付ける意味で有益ではありますが、逆に教団への過度な帰属意識や、他宗教、他宗派への無関心や時に攻撃心までも生じさせます。宗教のせいで家族がバラバラになるという話もよく耳にします。そのような理由で日本人は宗教に対して複雑な思いをもっています。宗教は智慧や信仰への一つの入り口ではありますが、到達点であるとは限らないのです。

 ギータの説くところは各宗教、宗派へのこだわりを超えた、普遍的な、科学的な絶対神や真我の理解、そしてそこから導き出される人間の生き方にあります。とは言ってもギータもインド哲学的な思考や当時のインド文化的背景を超えることはありませんから、そこを考慮して、さらに現代的な解釈を加えながら理解する必要はあるでしょう。

1996年8月6日

第45回 バガバッド・ギーター 15 第7章要約

  • バガバッド・ギーター……第七章要約

 クリシュナは告げた。

 アルジュナよ、私(神)に心を結びつけ、私に帰依してヨーガを修めれば、あなたは疑いなく完全に私を知るであろう。それにはどうすればよいか、聞きなさい。1

 それを知れば、この世には他に知るべきことは何も残っていない。2

 私は全世界の本源であり終末である。6

 私は水における味である。私は月と太陽における光である。8

 私を万物のエッセンスであり、永遠の種子であると知れ。10

 善性(サットヴァ)的、動性(ラジャス)的、暗性(タマス)的な状態は、まさに私から生ずると知れ。しかし私はそれらの中にはなく、それらが私の中にある。12

 これら三種の要素(グナ)からなる状態により、この全世界は迷わされている。そして、これらよりも高く、不変である私を理解し得ない。13

 実に、これらの要素からなる私の神的な幻力(マーヤ)は超え難い。ただ私に帰依する人々は、この幻力を超える。14

 悪をなす迷える最低の人々は私に帰依しない。その知識は幻力に奪われ、心千々に乱れた阿修羅的な状態に止まる。15

 アルジュナよ、四種の善行者が私を信愛する。すなわち、悩める人、知識を求める人、利益を求める人、知識ある人である。16

 彼らのうち、知識ある人が優れている。彼は常に私(神)に専心し、ひたむきな信愛(バクティ)を抱く。そして私にとっても彼は愛しい。17

 幾多の生の最後に、人は知識を得て、私が全てであると考え、私に帰依する。そのような偉大な人は非常に得られがたい。19

 種々の欲望によりその知識を奪われた人々は、各自の属性(プラクリティ)により各々の神仏に帰依し、そこで定められた戒律や修行法に従事する。20

 それぞれの信者が、信仰を持ってそれぞれの神仏を崇めようとするとき、各々の信仰心を揺るがぬものにせしめているのはこの私である。21

 彼はその信仰と結ばれ、その神仏を満足させることを望み、その後、諸々の願望が叶えられる。そのとき、それらの願望を叶えているのはこの私である。22

 しかし、これら各々の神仏に帰依する小知の人々の得る果報は有限である。神仏を崇める人々は神仏に至り、私を信愛する人は私に至ることができる。23

 私は本来、姿を持たない。しかし無知な人々は、私の偶像を求める。彼らは非顕現であるからこそ不変であり至高である私の最高の状態を知ることがない。24

 無知、小知の者は属性による幻力に覆われた私を明瞭に見ることができない。25

 

  • 解説……幻力

 目に見えるこの世界は全て、神の幻力(マーヤ)によって生じたものである、というのがヨーガ的世界観です。見るもの聞くもの全てが幻であって、私たちはその幻に惑わされて、なかなか真理を見出せない状態にあるわけです。仏教道教も同様の世界観を持っています。

 真に目覚めた人のみが幻の奥に隠された真理の世界を知ります。知識ある人とは、そういう人を指します。禅に「明歴々露堂々(めいれきれきろどうどう)」という言葉がありますが、目覚めた人にとっては真理は手に取るように明らかであるのに、幻力に惑わされる人は、たとえば砂粒が全てダイヤモンドであったとして、それに気づかず、不満の内に暮らすのです。

 それにしても、なぜ神が幻力をもって人々を惑わすのか、そこをよく考えて下さい。

1996年7月16日

第44回 バガバッド・ギーター 14 第6章要約

  • バガバッド・ギーター……第六章要約

 万物との一体感を持ち、万物に存する私(神)を信愛するヨギは、いかなる状態にあっても私の内にある。31

 悲しみにあるとき、万物の中にも悲しみを観じ、喜びにあるとき、万物の中にも喜びを見出す人は最高のヨギである。その人は万物の中に自らの心と同じものを観る32

 

 アルジュナは言った。「あなたはヨーガを成功も不成功も含め一切を平等に観る境地であると説いたが、クリシュナよ、私はその不動の境地を見いだせない。心が動揺するから。(33) 実に心は動揺し、かき乱れ、頑固である。それは吹き荒れる風のように抑制され難いようい私には思われる。(34)」

 

 クリシュナは告げた。

勇士よ、確かに心は動揺し、抑制され難い。しかし、それは常修と離欲によって制御可能となる。35

 心を制御しない者はヨーガの境地、すなわち平等の境地に達し難いと私は確信する。36

 

 アルジュナは尋ねた。「ヨーガを信じてはいるが、自己を制御せず、その心がヨーガから逸れた人は、ヨーガの成就には至らずに、どんな結果を迎えるのだろうか、クリシュナよ。(37) 彼は絶対神の道において迷い、拠り所を失い、ちぎれ雲のように滅びてしまわないか。(38) クリシュナよ、この私の疑惑を残らず断ち切ってくれ。この疑惑を断つ人は、あなた以外にあり得ないから。(39)」

 

 クリシュナは告げた。

 アルジュナよ。この世においても、来世においても、そのような人が滅びることは決してない。友よ、善をなす者は、誰も悪に赴かないから。40

 ヨーガを信じている者は、たとえその心がヨーガから逸れたとしても、善行者の世界に達し、無限の歳月そこに住んだ後、清浄で栄光ある人々の家に再生する。41

 そこで彼は、前世に得た知性との結合を得る。それから更に、成就を目指して努力する。43

 というのは、彼は前世の修行の成果をそのまま現世に持ち越すからである。44

 一方、黙々と努力するヨギは、その罪が清められ、幾生を経てヨーガを成就し、最後には解脱に達する。45

 ヨギは苦行者よりも優れ、知識人よりも優れていると考えられる。またヨギは祭式を行う者よりも優れている。それ故、アルジュナよ、ヨギであれ。46

 すべてのヨギのうちでも、私(神)に心を向け、信仰を抱き、私を信愛する者は、最高のヨギであると私は考える。47

 

  • 解説

 キリスト教では人間と神は同一ではあり得ない。ある時期、宗教会議によってそう決議されたのであるが、それを承認しない神秘主義(人間と神は同一とする)の一派もある。一方初期の仏教は神も魂もあの世も否定していたのだが、日本に伝わり花開いた仏教には、即身成仏、つまり神秘主義を唱える密教あり、阿弥陀仏による救済を唱える浄土教(これはキリスト教的とも言える)あり、計り知れない仏の営みと、一切肯定の世界を説く法華宗あり、一切を無に帰する、初期仏教に比較的忠実な禅宗ありとバラエティに富んでいる。

 バガバッド・ギータの説くヨーガはキリスト教神秘派に似ているように思う。現にギータは欧米でよく読まれ、ヨーガに興味を持つカトリック神父もときどき見受けられるが、仏教僧でヨーガを詳しく知る人は稀である。日本の仏教はバラエティに富むゆえに、系統立った理解は容易ではない。しかしヨーガは非常に科学的であり、ヨーガの理解を基礎にすれば各宗の理解も容易になる。

 ヨーガには法華的及び禅的な思考に欠けるところがあり、これを補えば最強であると私は考える。

1996年7月10日

第43回 バガバッド・ギーター 13 第5章要約

  • バガバッド・ギーター・・・・第五章要約

 行為のヨーガに専心した者は、行為の結果を捨て、究極の寂静に達する。専心しない者は、欲望のままに、結果に執着して束縛される。12

 すべての行為を意識により神に捧げるとき、主体である真我はその住処である身体に安らかに座す。真我は何も行為をせず、行為をさせるでもない。13

 真我は、身体の行為者たる状態とも、行為そのものとも、そして行為の結果とも結びつくことがない。14

 だから真我は罪悪を受けることがなく、善行の報いを受けることもない。しかしそうした智慧も無知に覆われているので、自分自身が罪悪や善行の報いを受けていると思い、迷うのだ。15

 しかし、智慧により彼らの真我に対する無知が滅せられたとき、彼らの智慧は太陽のように、最高の存在である真我を照らし出す。16

 真我に知性を向け、そこを帰結とし、それに専念する人々は、智慧によりカルマを滅し、解脱に至る。17

 智慧が確立し、迷妄なく、絶対神を知り、絶対神に意識を定めている人は、好ましいものを得ても喜ばず、好ましくないものを得ても嫌悪しない。20

 外界との接触に執心せず、自己の内に幸福を見出し、絶対神との結合のヨーガに専心した者は不滅の幸福を得る。21

 実に、外界との接触から生ずる諸々の享楽は、苦を生むものに過ぎず、始めと終わりのあるものであり、永遠性に欠ける。アルジュナよ、智者はそれらを楽しまない。22

 内に幸福あり、内に楽しみあり、内に光明あるヨギは、絶対神と一体化し、肉体から離れるときに絶対神の世界に達する。24

 智慧によりカルマを滅し、絶対神に対する疑惑を断ち、自己を制御し、すべての生類の幸せを喜ぶ聖仙たちは、肉体から離れるときに絶対神の世界に達する。25

 礼拝と行為のすべては私(神)に捧げられるべきであると知り、また私を全世界の偉大な主、すべての生類の友であると知れば、寂静に達する。29

 

  • 解説・・・・・真我との出会い

 真我という、自分の中にある存在の根本に出会わないことには、ヨーガの世界は見えて来ません。また、真我を自覚するとき、明らかに様々なものに対する見方が変化します。真我との出会いは、少しずつ真我を覆っている雲を取り除いて行く作業に他なりません。

 その作業は日々のヨーガ実践や、社会生活や人間関係を営む上での様々な努力や智恵によって一歩一歩進められます。雲とは、すなわち自我から生じた我が儘な思いであったり、真理に対する無知であり、瞑想中に胸の感覚に集中すれば、実際に内なる光(真我)を覆う雲として自覚されるものです。台風一過のように、何かの拍子で突然雲が晴れて、気持ちが踊り出すこともありますが、それはまた何かの拍子で雲に覆われます。日々、胸の辺りの感覚に注意を向け、その晴れ具合、曇り具合を把握し、曇りならば、その原因を探り、いかに晴れさせるかを考えながら、少しずつ智恵を蓄えて行くとき、次第に真我との邂逅を見ることでしょう。

 真我を自覚するとき、我が身に何が起ころうとも、我が身のみを嘆くことなく、我が身のみを喜ぶこともなく、すべてのものに友情を感じながら生活できることでしょう。

1996年7月1日

第42回 バガバッド・ギーター 12 智慧のヨーガ

  • バガバッド・ギーター・・・・第四章(智慧のヨーガ)要約

 善人を救うため、悪人を滅ぼすため、道徳を確立するために、私は数十万年ごとに出現する。8

 愛執、恐怖、怒りを離れ私(神)に専念し、私に帰依する多くの者は、その功徳によって浄化され、私と同じ状態に達する。10

 人々がいかなる方法で私に帰依しても、私はそれに応じて彼らを愛する。そして彼らは私の説くカルマヨーガの道に従う。11

 人々は現世での成功を期して神々に祈るが、成功は行為によってのみもたらされる。12

 行為しながらも無為であり、無為でありながら行為をなしている者は人間の内の知者である。彼はどんな行為であれ、その行為に集中するのみである。18

 彼の行為の動機がすべての欲望と願望を離れており、そして彼の行為が知性的であるとき、彼は賢者と呼ばれる。19

 智慧において最高神を理解することは、財物による布施よりも優れている。アルジュナよ、すべての行為は残らず智慧において完結する。33

 師への服従により、質問により、奉仕により智慧を獲得せよ。真理を知る智者たちは、あなたに智慧を教示するであろう。34

 それを知れば、あなたは再び迷妄に陥ることはなかろう。アルジュナよ。その智慧によって万物を残らず自己の内に見るだろう。同じく私(神)の内に見るだろう。35

 仮にあなたが悪人の中でも極悪人であったとしても、智慧の舟によりすべての罪を渡るであろう。36

 火が薪を灰にするように、智慧の火はすべての業(カルマ)を灰にするのである。37

 智慧に等しい浄化作用を持つものはこの世にない。種々のヨーガの実践により解脱を得た人は自ら、自己の内に智慧を見いだす。38

 

  • 解説……智慧とは理解

 神人と呼ばれる人が歴史上何人か現れています。釈迦、イエスもその一人であり、ここに登場するクリシュナも実際に存在した神人であっただろうと、現代の神人、サティア・サイババ言っています。

 さて、四章では智慧が大きなテーマになっています。智慧とは言い換えれば、人間のこと、宇宙のこと、神のことを深く、体験的に理解していることと言えます。

 子供は好奇心の塊で、ありとあらゆる質問を浴びせてきますが、大人になるに連れ、好奇心よりも世間的な都合の方が優先され、分別くさくなり、あらゆることが当たり前の常識として固まってしまい、興味や関心、好奇心が薄らいで行きます。そして分からないままでいることの居心地悪さに慣れきっていて、そこに改めて疑問を発する勇気を失ってしまいます。

 深い、体験的な理解とは対象に集中し続ける行為なので、相当な集中力とエネルギーを要します。普段から疑問を発している人は理解に必要な精神的体力を十分養っていますので、年を取っても好奇心が衰えません。すでに理解の体力を失いかけている人も、ヨーガで好奇心とエネルギーを復活させて、子供のように「なんで?」と問いかけて下さい。

 なぜ人は病気になるのか、なぜ不幸な人はいつも不幸なのか、人間とはどういう存在なのか、自分とはどういう存在なのか、どこから来てどこへ行くのか、神仏は存在するのかしないのか、疑問は尽きません。問いかけて、考えて、調べて、質問して、深く、そして体験的に理解できたときに人は一つ智慧を獲得します。是非、自ら智慧を導き出して下さい。

1996年6月17日

第41回 バガバッド・ギーター 11 行為によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第三章(34~43) 行為によるヨーガ

 感覚器官には、それぞれの対象についての愛執と憎悪が定まっている。人はその二つに支配されてはならぬ。それは人にとって敵である。34

 自己の義務(ダルマ)の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。自己の義務に死ぬことは幸せである。他者の義務を行うことは危険である。35

 

 アルジュナはたずねた。

「それでは、クリシュナ。人間は何に命じられて悪を行うのか。望みもしないのに。まるで力ずくで駆り立てられたように。」36

 

 クリシュナは告げた。

 それは欲望である。それは怒りである。プラクリティの3つの要素(グナ)、すなわち暗性(タマス)、動性(ラジャス)、善性(サットヴァ)のうちの動性から生じたものである。それは大食で、非常に邪悪である。この世で、それが敵であると知れ。37

 火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるように、この世は欲望や怒りに覆われている。38

 智慧者の智慧も、この永遠の敵、満たし難い欲望という火に覆われている、アルジュナよ。39

 感覚器官と意識(マナス)と知性(ブッディ)は、欲望のよりどころであると言われる。それらは智慧を覆い、真我を迷わせる。40


 諸感覚器官は強力である。意識はそれら感覚器官よりも上位にあり、知性は意識よりも上位にある。しかし、知性よりも上位にあるもの、それが真我(アートマン)である。42

 それゆえアルジュナよ、あなたはまず感覚器官を制御し、理論における智慧と、実践における智慧を滅ぼすこの欲望という邪悪なものを捨てよ。41

 このように、知性よりも高いものを知り、真我を確固たるものにして、アルジュナよ、欲望という難敵を殺せ。43・・・三章おわり・・・

 

  • 解説……欲望という難敵

 35節は注目に値します。私たちが何かをしようとするときに、それが自分の義務なのか、他人がすべきことなのかを注意深く見極めなければなりません。チームを組んで仕事をするときや家事や子育てにおいても、自分の義務と相手の義務とは複雑に入り乱れています。他人の義務に踏み込めば、その人のなすべき行為を奪うことになりますし、そのことに気を取られて自分の義務を忘れることもしばしばです。自分の義務に集中していれば一日を忙しすぎず、暇すぎず過ごせるほどの仕事量が自分に与えられていることに気づくことでしょう。

 さて、世に絵や服装に気を取られる視覚人間、活字好きで話の内容に気を取られる聴覚人間、さらに味覚人間、嗅覚人間、触覚人間もいるでしょう。私たちは五感のどれかに気を取られ、執着し、ときにどうでもいいことを嫌悪したりして、自ら苦しみに陥ります。意識や知性は感覚器官より上位にあるとは言っても強力に影響を受けています。見栄えの良い政治家の言うことは正しく聞こえたりします。感覚的に好ましいものを知性で正しいと判断したりしているのです。

 しかし感覚器官や意識、知性から隔絶した高さにある真我を自覚するとき、執着や嫌悪、それらから来る欲望を超えることができるようになります。そのとき初めて知性は真理を知り、智慧を蓄えます。そのとき私たちは感覚器官に支配されてうごうごしている存在から、自分自身を支配し、永遠の幸福を手にする存在になりうるのです。

19966月4日

第40号 バガバッド・ギーター 10 行為によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第三章(22~35) 行為によるヨーガ

 アルジュナよ、私にとって、この世でなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかし私は行為に従事する。22

 なぜなら、もし私が行為をしなければ、人々は私を手本とするだろう。23

 そして、人々が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。つまりは私が世の中に混乱を引き起こし、生類を滅ぼすことになるのだ。24

 愚者は行為に執着して行為するが、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為するべきである。25

 賢者は行為に執着する愚者たちに、知性の混乱を生じさせてはならない。賢者は行為の手本を示し、愚者たちの行為を指導するべきである。26

 諸行為は主体である真我とは無関係に、根本自性の要素から引き起こされる。しかし自我意識に惑わされた者は、「私が行為の主体である」と考える。27

 しかしアルジュナよ、要素と行為が真我と無関係であるという真理を知る者は、諸要素が諸要素に対して働いているだけなのだと考えて、行為に執着しない。28

 プラクリティの要素に迷わされた人々は、要素から引き起こされる行為に執着する。すべてを知る者は、このような愚者を導くべきである。29

 信仰を抱き、不満なく、常に私の教説に従う人々は、行為から生ずる束縛から解放される。31

 真我は一切の行為と無関係なのだから、すべての行為を私(神)のうちになげうち、行為の結果に対する願望を捨て、「私が行為の主体である」という意識を捨て、苦熱を離れて戦え。30

 しかし、不満を抱き、私の教説に従わない人々、彼らは知識に迷わされる者であり、破滅した愚者であると知れ。32

 知識ある人も、自分の属性にふさわしく行動する。万物はその属性に従うのだ。それを抑圧して何になろうか。33

 

  • 解説……行為の主体

 インド哲学においては万物の本性と属性をはっきり区別します。どんな人間も、どんな生き物も、そしてどんな物も本性は神(真我、プルシャ、ブラフマンアートマン)であって、それは目に見えない、認識不可能な大いなる原理です。そして属性(根本自性、プラクリティ)とは認識可能な部分であり、私たちの行う様々な行為は属性から生じていると考えられます。

 腹がへるのは属性であって、そこから食べるという行為が生じます。本性は腹がへったりしません。しかしほとんどの人は、自我意識の働きにより、属性を本性であると勘違いし、「腹がへっているのは私自身である」と考え、食べるという行為に執着します。その結果、太るという結果を招き、また太っている体を自分自身と勘違いし、やせるという行為に執着したりします。

 「どんな行為にも主体は存在しない」というのがインド哲学的な真実です。行為とは現象に過ぎないのです。しかし食べることなしに私たちは生命という現象を維持し得ませんし、働くことなしに社会という現象を維持し得ません。そこで私たちは生命を維持し、社会を維持する義務として行為するのです。こうした超越的な視点に立てば、行為を「自分のために」と執着しながら行うこともなくなり、また行為の質も善性へと向上します。当然、その結果も生命や社会に調和的なものになるのです。

 また33節に「万物はその属性に従うのだ。それを抑圧して何になろうか。」とありますが、これは自己を解放する方向で行為することが、すなわちその人の義務と言えるのだと解釈できるのではないでしょうか。

1996年5月21日