第40号 バガバッド・ギーター 10 行為によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第三章(22~35) 行為によるヨーガ

 アルジュナよ、私にとって、この世でなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかし私は行為に従事する。22

 なぜなら、もし私が行為をしなければ、人々は私を手本とするだろう。23

 そして、人々が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。つまりは私が世の中に混乱を引き起こし、生類を滅ぼすことになるのだ。24

 愚者は行為に執着して行為するが、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為するべきである。25

 賢者は行為に執着する愚者たちに、知性の混乱を生じさせてはならない。賢者は行為の手本を示し、愚者たちの行為を指導するべきである。26

 諸行為は主体である真我とは無関係に、根本自性の要素から引き起こされる。しかし自我意識に惑わされた者は、「私が行為の主体である」と考える。27

 しかしアルジュナよ、要素と行為が真我と無関係であるという真理を知る者は、諸要素が諸要素に対して働いているだけなのだと考えて、行為に執着しない。28

 プラクリティの要素に迷わされた人々は、要素から引き起こされる行為に執着する。すべてを知る者は、このような愚者を導くべきである。29

 信仰を抱き、不満なく、常に私の教説に従う人々は、行為から生ずる束縛から解放される。31

 真我は一切の行為と無関係なのだから、すべての行為を私(神)のうちになげうち、行為の結果に対する願望を捨て、「私が行為の主体である」という意識を捨て、苦熱を離れて戦え。30

 しかし、不満を抱き、私の教説に従わない人々、彼らは知識に迷わされる者であり、破滅した愚者であると知れ。32

 知識ある人も、自分の属性にふさわしく行動する。万物はその属性に従うのだ。それを抑圧して何になろうか。33

 

  • 解説……行為の主体

 インド哲学においては万物の本性と属性をはっきり区別します。どんな人間も、どんな生き物も、そしてどんな物も本性は神(真我、プルシャ、ブラフマンアートマン)であって、それは目に見えない、認識不可能な大いなる原理です。そして属性(根本自性、プラクリティ)とは認識可能な部分であり、私たちの行う様々な行為は属性から生じていると考えられます。

 腹がへるのは属性であって、そこから食べるという行為が生じます。本性は腹がへったりしません。しかしほとんどの人は、自我意識の働きにより、属性を本性であると勘違いし、「腹がへっているのは私自身である」と考え、食べるという行為に執着します。その結果、太るという結果を招き、また太っている体を自分自身と勘違いし、やせるという行為に執着したりします。

 「どんな行為にも主体は存在しない」というのがインド哲学的な真実です。行為とは現象に過ぎないのです。しかし食べることなしに私たちは生命という現象を維持し得ませんし、働くことなしに社会という現象を維持し得ません。そこで私たちは生命を維持し、社会を維持する義務として行為するのです。こうした超越的な視点に立てば、行為を「自分のために」と執着しながら行うこともなくなり、また行為の質も善性へと向上します。当然、その結果も生命や社会に調和的なものになるのです。

 また33節に「万物はその属性に従うのだ。それを抑圧して何になろうか。」とありますが、これは自己を解放する方向で行為することが、すなわちその人の義務と言えるのだと解釈できるのではないでしょうか。

1996年5月21日