第39号 バガバッド・ギーター 9 行為によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第三章(9~21) 行為によるヨーガ

 この世の人々は行為に束縛されている。しかし、神に捧げるための行為は例外である。アルジュナよ、執着を離れて、神に捧げるための行為をなせ。9

 創造主はかつて生類を創造して告げた。

 「すべての行為を神に捧げることによって繁殖なさい。それによって汝らの願望がかなえられますように。10

 それにより神々を繁栄させなさい。その神々も汝らを繁栄させますように。互いに繁栄させつつ、汝らは最高の幸せを得るであろう。」11

 捧げ物によって繁栄させられた神々は、汝らに富や食物を与えるであろう。神々に捧げることなく、与えられた富や食物を享受する者は、盗賊に他ならない。12

 神に捧げた残り物を自分のものとする善人は、すべての罪悪から解放される。しかし、自分のためにのみ行為をなす者は罪を受けるだろう。13

 万物は食物から生じ、食物は雨から生じ、雨は神に捧げる行為から生じる。14

 そして神に捧げる行為は、万物に遍在する神から生じる。それ故に、神と神に捧げる行為とは円環的な関係にある。15

 このように回転する円環関係を、この世で回転させ続けない人、ただ五感を楽しませている罪ある人は、空しく生きる人である。16

 一方、自己の本質(真我)に至福を見出し、満ち足りた人は、もはや行為を必要としない。17

 彼にとって、この世における成功と不成功は何の関係もない。また、万物に対し、彼が何らかの期待を抱くこともない。18

 そのようであることを目指して、執着することなく、常になすべき行為を遂行せよ。執着することなしに行為を行えば、人は解脱に達する。19

 実際、ジャナカ王などは、行為のみによって解脱に達した。また、執着することなしに行為をなすことによって、世界は正しく維持されるのである。そのことも考慮されなければならない。20

 最上の者が手本を示せば、人々はそれに従う。21

 

  • 解説……行為を神に捧げる

 今回は少し難しいけれど、カルマヨーガを理解する上で重要なところです。私たちが何か行為をすれば、それが原因となって、ある結果を招きます。これはカルマの法則と呼ばれる一つの真理で、日本では「自業自得」という言葉になっています。高い視点に立てば、9節にあるように、私たちは自業に束縛されていて、身動きがとれない状態にあります。それはすべて私たちが自分や自分たち、そして他人のために行為をなし、またその結果に拘泥しているからに他なりません。

 誰かのために何かを行えば、当然結果が気になります。しかし誰のためでもない、ただ義務を遂行するという理由で行為をなせば、結果は気にしなくて済みます。それをギータでは行為を神に捧げると表現します。少なくとも神に捧げるのであるから、ヘンなことはできませんし、同じやるのでも真心がこもります。また、そうして捧げられたどんな行為にも神は満足します。しかし自分や他人のために行ったことは必ずしも満足されるとは限りません。このような理由で行為は神に捧げられるべきなのです。

 13節の「神に捧げた残り物を自分のものとする・・・」とは行為を神に捧げ、そしてどんな結果も甘んじて受けるということです。14~16節は難しい部分ですが、行為を神に捧げるとき、その結果は神から返ってきます。このとき私たちは神または宇宙との間の大きな流れ、大きな関係を作るのです。行為を神に捧げるとは、行為するときの意識の持ち方を少し変えるだけですから難しくはありません。即実行可能です。そして宇宙から返ってくる意識の流れを感じるとき、私たちの意識は大きく変革することでしょう。

1996年5月14日

第38号 バガバッド・ギーター 8 行為によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第三章(1~8) 行為によるヨーガ

<あらすじ>

 王位継承を賭けて大合戦に臨もうしている勇者アルジュナは、敵陣に居並ぶ肉親や親族を見て戦意を喪失する。参謀としてアルジュナ側についた神の化身クリシュナはアルジュナを励ますためにヨーガの秘伝を解き明かす。第二章では次の点が説かれる。肉体は死んでも魂は永遠に存在し続けるので賢者は生死を嘆かない。また、愚者は結果を動機として行為し、そしてその結果に束縛されるが、賢者は結果に惑わされることなく、ただ義務を遂行することに専心する。そのためには五感を制御し、自我から生じる欲望を捨て、心の平安を確立する必要がある。

 

アルジュナはたずねた。

 「クリシュナよ、もし行為より智慧が優れていると考えられるなら、なぜ、あなたは私を恐ろしい行為に駆り立てるのか。1

 あなたは難しい言葉で私の知性を惑わすかのようだ。はっきりと、ただ一つのことを言ってください。それによって私が至福を得られるような…。」2

 

 クリシュナは告げた。

 アルジュナよ、この世には二種の立場があると、前に私は述べた。すなわち、知識のヨーガによる哲学的立場と、行為のヨーガによる実践者の立場とである。3

 人は行為をすることなしに、行為のヨーガ(カルマヨーガ)を達成することはできない。単に一切の行為を放棄することでは、それの成就はあり得ない。4

 一瞬の間でも行為をしないでいることは誰にもできない。なぜなら、すべての人は根本自性から生ずる要素により、否応なく行為させられるのである。5

 行為することを止め、ただひたすらに座すとしても、心が五感の対象物を追い求め、迷っているようであれば、彼はえせ行者と言われる。6

 しかし、五感を制御し、執着のない状態で、様々に行為する人は行為のヨーガの状態にある。彼はよりすぐれている。7

 あなたは人間に定められた行為、そしてあなたに定められた行為をなせ。行為は無為よりも優れている。もし、あなたが何も行わないなら、身体を維持することさえできないだろう。8

 

  • 解説……根本自性、要素

 三章のはじめにアルジュナは「もし行為より智慧が優れていると考えられるなら・・・」と問っていますが、これは少し見当はずれな質問です。アルジュナはまだクリシュナの説くヨーガをよく飲み込んでいないのです。そんな彼(私たち)のためにクリシュナは手を変え品を変え、いろいろな説明の仕方でヨーガを解き明かします。

 さて、インド哲学ではこの宇宙、この世界はただ一つの原理(プルシャ)から生じていると説明します。そして人間にも路傍の石にも同じ原理が宿っているとするのです。そして、人間を人間らしく、石を石らしくしているのが、この原理の下位に存在する根本自性(プラクリティ)です。根本自性はさらにその下位において3つの要素(グナ)に分かれます。要素は精神次元では善性、動性、暗性に分かれ、物質次元では風の要素(ヴァータ)、火の要素(ピッタ)、水の要素(カパ)に分かれ、そのものの性質を決定します。ちなみにプルシャはブラフマンと同義語です。

1996年5月7日

第37号 バガバッド・ギーター 7 理論によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第二章(64~72) 理論によるヨーガ

 五感を自己の支配下に治め、感覚の対象物への愛憎を離れることによって自己を制御した人は寂静に到達する。64

 寂静に至った人は、速やかにを確立するので、彼の苦悩は全て消滅する。65

 神に専念しない人は智慧を確立することなく、また、瞑想することもない。瞑想しない人には寂静もない。寂静でない者にどうして幸福があろうか。66

 対象物を追って動き回る五感に振り回される意識は、人の智慧を奪う。風が水上の舟を奪うように。67

 それ故に、勇士よ、五感をその対象から引き上げたときに、その人の智慧は確立する。68

 万物から対象を引き上げたときに聖者は目覚め、万物は眠る。万物が目覚めるとき、愚者もまた目覚め、智慧の聖者は眠る。69

 海に水が流れ込むとき、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。欲望を求める者はそれに達しない。70

 すべての欲望を捨て、また自我より生じる「私」とか「私のもの」という思いもなく行動すれば、その人は寂静に達する。71

 アルジュナよ、これが最高神ブラフマン)に到達した解脱の境地である。ここにおいては迷いというものがない。この境地にあれば、臨終において肉体を捨てるとき、涅槃に達し、最高神と同一化する。72・・・・・第二章終わり

 

  • 解説……寂静・解脱・涅槃

 寂静とは心が平和で澄んだ状態にあることを言います。日々、瞑想し、欲望を制御することで寂静は得られます。現代のように欲望をあおり立てるものが溢れている状況でこそ、寂静に至る努力は続けられるべきです。多くの人が寂静を目指すことで世の中全体が平和になって行きます。

 解脱とは、寂静が頂点に達し、それが永続している状態です。しかし肉体を持つ限りは食欲や性欲、睡眠欲、病気に対する恐れ、死に対する恐れを抱きます。そうした、あらゆる欲望が日々やっくるので、解脱の状態を保つのは難しいことです。涅槃とは、死を迎え、肉体を離れることで得られる完全な解脱です。生前から寂静を心がけている人にとって、死は永遠の安らぎと受け止められるようになります。

 しかし私たちは寂静を目指しつつも、社会に関わり、日々の行為をして行かなければなりません。行為は新たな欲望を引き出すこととも言えます。いかに行為すべきかについて、第三章以降に説かれます。

1996年4月21日

第36号 バガバッド・ギーター 6 理論によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第二章(54~63) 理論によるヨーガ

 アルジュナはたずねた。

「クリシュナよ、智慧が確立し、三昧の境地にある人はどんな特徴をもっているのか。智慧を確立した人はどのように語り、どのように座し、どのように歩むのか。」54

 

 聖バガバッド(クリシュナ)は告げた。

 アルジュナよ、意識の中にあるすべての欲望を捨て、自己の本質(真我)のみに至福を感じるとき、その人は智慧が確立したと言われる。55

 不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、智慧が確立した聖者と言われる。56

 すべてのものに愛着なく、善を喜ぶことも、悪を憎むこともない人、その人の智慧は確立している。57

 亀が頭や手足をすべて収めるように、五感の対象物から五感を引きこもらせるとき、その人の智慧は確立している。58

 断食をする人は、食べたいという思いから、味という感覚だけが残り、他の感覚は消滅している。それと同じように、最高の神を見るとき、すべての感覚は消滅する。59

 しかしアルジュナよ、賢明な人が努力しても、五感は彼をかき乱し、彼の心を力ずくで奪ってしまう。60

 五感を全て制御して、精神を統一し、神に専念して座るべきである。五感を制御した人の智慧は確立する。61

 人が五感の対象物を思い浮かべるとき、それらに対する執着が生じる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生じる。62

 怒りから妄念が生じ、妄念から理性が混乱する。理性の混乱から知性が喪失し、知性の喪失から人は破滅する。63

 

  • 解説……智慧の確立

 ギータのこの部分を読めば、智慧の確立とは人間的な部分を捨てること、つまり凡人には不可能であることが容易に理解できると思います。しかし理論的には非常にすっきりしていて、智慧の確立、つまり解脱に至るには五感を制御し、一心に真我(内なる神)に専念するのみなのだと説いています。こういう努力をした人が初めて、人間の中に神性と人間性が矛盾しつつ同居しているという事実に気づき、このどうにもならない人間性をも受容していこうという、大乗仏教的な救いに開眼するのです。

 最後の62、63節は有名な、耳の痛いフレーズです。よく噛みしめてください。

1996年4月14日

第35回 バガバッド・ギーター 5 理論によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第二章(39~53) 理論によるヨーガ

 ここまで、哲学的な考察による知識のヨーガを説いた。次にカルマヨーガによる智慧を聞け。その智慧によって心を統一すれば、あなたは因果に束縛されることがないだろう。39

 そのとき、すべてのことが思い通りに展開し、挫折することがない。このカルマヨーガの教えのごくわずかでも、輪廻やカルマという大いなる恐怖から人を救済する。40

 この世においては、解脱を目指そうとする智慧が最高のものである。しかしこの唯一の目標を欠いた者たちの智慧は多岐に別れ、とりとめがない。41

 愚者たちはヴェーダ聖典の言葉に喜び、これが最高であると説き、そこに書かれた華々しい言葉を語る。42

 欲望に引きずられ、ヴェーダの祭式で天界に生まれようとする彼らは、そうした行為の結果として再びこの世に生まれ、飽くことなく享楽と権力を目指す多種多様な儀式についての華々しい言葉を語るのだ。43

 その言葉に心を奪われ、享楽と権力に執着する人々が、智慧が確立し、解脱の境地に住することはない。44

 ヴェーダの祭式は現象界を対象としている。アルジュナよ、現象界と相対の世界を離れよ。現象界の中にあっても善なる性質に立脚せよ。物質欲を離れ、自己を制御せよ。45

 いたる所で水が溢れているとき、井戸は無用である。同様に、真実を知るバラモンにとって、すべてのヴェーダの祭式は無用である。46

 あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また、何かを行えばその結果に束縛されるからといって、何もしないことに執着してはならない。47

 アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功とを平等に見るというヨーガの智慧の上に立ち、諸々の行為をせよ。ヨーガとは一切のものを平等と見る超越的な境地でなのである。48

 結果を動機とする一般の行為は、このヨーガの智慧よりも遥かに劣る。この智慧をよりどころとせよ。結果を動機とする者は哀れである。49

 智慧を備えた人は、この世で、善を動機とすることも悪を動機とすることもなく、善悪ともに捨てる。それ故にヨーガの平等の境地を目指せ。ヨーガとは諸行為の上に智慧を確立することである。50

 智慧を備えた賢者たちは、行為から生ずる結果に執着することなく、この世に生まれいでたという輪廻の束縛から解脱し、煩いのない境地に達する。51

 あなたの智慧が迷妄に満ちたこの世の汚れを離れるとき、あなたはあなたを翻弄するようなものを厭うようになるだろう。52

 あなたの智慧が揺るぎなく確立し、もう迷妄に惑わされることもなくなったとき、あなたはヨーガの境地、すなわち三昧の境地に達するであろう。53

 

  • 健康……運動をしないと血がつくられない

 骨に刺激が加わると、ピエゾ電流という電流が流れ、骨芽細胞の働きを活発にし、骨を丈夫にします。また、骨髄機能も高まるので、新鮮な血液が増え、免疫細胞も増えるのです。 無重力状態では、骨に負荷が掛からないので、一日で血液が約一割減少し、八日で骨のカルシウムが二割以上溶けだし、いわゆる骨粗しょう症になるのだそうです。体も頭も使わなければ、あっと言う間に衰えるということです。

 幼児の頃は、全身の骨の骨髄で血液を造っていますが、大人になると肋骨や胸骨、背骨などの短い骨や扁平な骨で骨髄は造られると言われています。ですからそれらの骨に刺激を加える運動が、骨を丈夫にするためにも、新鮮な血液を造るためにも、免疫力を衰えさせないためにも重要ということになります。ヨーガのコブラアーサナやすきのアーサナ、その他いろいろなアーサナが、これらの骨に刺激を与えます。ヨーガを日々行う人は骨粗しょう症知らずです。(倉本英雄著『はつらつ人生を送るために』要約)

1996年4月1日

第34回 バガバッド・ギーター 4 理論によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第二章(25~38) 理論によるヨーガ

 アートマンはその姿を現すことがないので認識されることがない。不可思議で、不変であると言われている。アートマンとはそのようなものなのだから、あなたは嘆くべきではない。25

 仮に肉体が死ぬときアートマンも死に、肉体が生まれるときアートマンも生まれると、あなたが考えたとしても、あなたはそのことについて嘆くべきではない。26

 なぜなら生まれた者に死は必然であり、死んだ者に生は必然なのだ。避けられないことについて嘆くべきではない。27

 すべてのものは生じる前は姿がなく、生じた後には姿があり、消滅した後はまた姿が失せる。この当たり前のことをなぜ嘆くのか。28

 ごく少数の人がアートマンを体験し、ごく少数の人がアートマンについて語り、ごく少数の人がアートマンについて聞く。大半の人はアートマンのことを知らない。29

 どんな人の身体にもアートマンは宿り、それ故に決して殺されることがない。だから万物が生まれ、そして滅することについて嘆くべきではない。30

 そしてまた、あなたは自己の義務(ダルマ)を考慮しても、今この戦いにおいて怯むべきではない。武士は戦うことを義務としているのだから。31

 武士は戦って死ねば天界に行けると云われている。アルジュナよ、幸運な武士にのみこのような戦いの場が与えられるのだ。32

 もし、この戦いを行わなければ、あなたは義務と名誉を捨てたとして罪悪を得るだろう。33

 人々はあなたの不名誉を永遠に語るだろう。そして、名のある人にとって不名誉は死よりも劣る。34

武士たちは、あなたが恐怖から戦いを止めたと思うだろう。あなたは彼らに敬われていたのに、軽蔑されることになろう。35

 また、あなたの敵はあなたの能力を難じ、語るべきでないような多くのことを言いふらすだろう。これほど辛いことがあろうか。36

 あなたは殺されれば天界に行き、勝利すれば王族として地上を享受するだろう。だからアルジュナよ、立ち上がれ。戦う決意をして。37

 苦楽、得失、勝敗に惑わされるな、それらを同一のものと見て、戦いの準備をせよ。勝つために戦うのでも、負けを恐れて戦うのでもない。そうすればあなたは罪悪を負うことはない。38

 

  • 解説……義務と罪悪

 義務のことをインドの言葉で「ダルマ」と言います。これには法という訳語もよく使われます。「人間がこの社会において守るべき道徳、そして遂行するべき義務」という意味です。さて、クリシュナはアルジュナに「武士なら武士らしくその義務を果たせ」と説教しています。アルジュナはたまたま武士なのですが、私たちは家庭人であり、会社員であり、社会人であり、日本人であり、地球人であり、男であり、女でありますから、それなりの義務を果たすべきであると、クリシュナは私たちに言うことでしょう。また、人間として人格を発達させること、健康を維持することも私たちの重要な義務でしょう。

 武士の義務を果たすために、親族を殺さなければならないというジレンマにアルジュナは苦しんでいますが、クリシュナは「肉体は死んでも、アートマンは死なない」という論理でアルジュナを鼓舞します。

 毛沢東はギータのこの部分を利用して革命を推進しました。オーム真理教もこの論理を悪用して、簡単に人を殺してしまいます。しかし彼らは自分の利益のために行動を起こしています。そこがギータの論理からはずれるのです。ギータでは38節以降、結果(たとえば自分の利益)を行動の動機としないことを繰り返し説きます。38節にあるように、ただ義務から行為をすれば、罪悪を問われることはないのです。(もちろん感情の問題は残りますが)オーム裁判でもそこが大きな争点になることは間違いありません。

1996年3月24日

第33回 バガバッド・ギーター 3 理論によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第二章(14~24) 理論によるヨーガ

 アルジュナよ、現世において、つまり魂が肉体を得ている間、否応なく、我らはさまざまな環境に接触し、それらは我らに苦楽や寒暑をもたらす。それらは来たと思えば去り、去ったかと思えばまた来て、定まることがない、無常のものである。それらに耐えよ、アルジュナ。14

 そうした苦楽や寒暑に出会っても、一向に心乱れることなく、いつも同じ気持ちでいられる者こそが賢者である。15

 滅んだり、生まれ変わったりする肉体は真に存在しているとは言えない。真我(アートマン)こそが真の存在である。この違いをはっきりと知らなければならない。16

 全世界は永遠不滅の存在(ブラフマン)で満たされている。この存在を滅ぼすことは誰にもできない。17

 身体は有限であるが、それに宿るアートマンは滅びることがない。だから戦うのだ、アルジュナ。18

 このことを良く理解していない者は、殺すとか、殺されるという意識を持つが、真の存在であるアートマンは殺しも、殺されもしない。19

 アートマンは生まれることがないので、死ぬこともない。不生、永遠、不滅であり、太古から存在している。身体が殺されても、アートマンが殺されることはない。20

 そうと知っている者にとって、殺すも殺されるも意味を成さない。21

 人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、アートマンは古い身体を捨て、他の新しい身体を着るのだ。22

 武器がアートマンを断つことなく、火がそれを焼くこともない。水がそれを濡らすことなく、風もそれを乾かさない。23

 アートマンは断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。アートマンは常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。24

 

 アートマン(真我)とは私たち人間の根本存在です。インド哲学では無常のものは真に存在してはいないと説きます。つまり私たちの肉体や心、また財産などは常に変化しているので、本当には存在してはいないと考えるのです。また、肉体や心、財産など、不安定なものに執着すれば当然迷いを生じます。

 それでは信頼に足り、執着するに足る、本当の存在とは何だろうかという疑問が生じます。人間の中に何か絶対的で、永遠不滅で、不変のものがあるのでしょうか。

 あると唱える学者たちはそれをアートマンと名付けました。そして人間だけでなく、すべての生物、無生物に同じ根本存在が宿っていると考え、それをブラフマン(絶対神)と名付けました。つまり人間の中に宿るブラフマンを特にアートマンと呼んでいるのです。アートマンブラフマンは同意義です。そしてヨーガ修行者とは、このアートマンを見いだし、体験しようと努力している人たちのことを言います。

 一方で他の学者は、人間の中に、または世の中に永遠不滅、絶対不変のものなどないと考えます。あるものは他のものとの関わりの中に相対的に存在しているのみであると考えるのです。この考えを仏教では「縁起」と呼びます。たとえば人の性格にしても、会う人によって自分自身が違う性格になるように思うことがあります。一体自分の本当の性格は何なのだろうかと考えたりします。しかし「縁起」の考え方によれば、元もと本当の性格などなく、一緒にいる相手によって、自分の取るべき態度、性格を定めているのです。

 私見では、通常の世界では縁起の考え方を適用し、少し超越的な部分ではアートマンのような絶対存在を考えるのが良いように思っています。

1996年3月18日