第18回 「勧戒⑤ 信仰」

  • 瞑想ノート……⑤ 信仰

 私たちは信じるものなしには生きられません。幼い頃にはおそらく母親や父親を信じ切っていたでしょうし、少し大きくなってからは友達や先生信じるようになります。大人になってからは妻や夫、または会社を信じたり、「信じられるのはお金だけ」という人もいます。信じるとは、「信じている」という自覚もなくその対象に寄りかかっている状態です。もし「信じている」と口に出して言うようであれば、完全に信じて良いかどうかわからないという想いが心の底に潜んでいるのではないでしょうか

 もし幼い頃に母親から見放されたと思い込んだなら(母親の側からすれば裏切った気持ちはなくても)、きっとその子は信じるものを失って情緒不安定な状態に陥ったことでしょう。その記憶は一生ついて回ることも希ではありません。「信じている」という自覚もないほど頼っている対象から見放されたら、本当に足下をすくわれる思いになり、立ち直るまでに相当時間が掛かるのは事実ではないでしょうか。夫や妻の浮気にしても同じことです。立ち直れないだけでなく、相手を恨むようになり、その恨みという感情にすがって生きるようになったとしたら辛い人生でしょう。

 できるだけ傷つかずに生きていたいと願うのが人間ですから、いつの頃からか自分自身に全幅の信をおくようになるのが自然の姿です。そこで信頼するに足る自我を形成して行くわけです。勉強ができる自分、スポーツができる自分、仕事ができる自分、音楽のできる自分、しかしこれらの自我が壊れやすいものであるのも事実です。すぐに自信喪失してしまいます。希に本当に何かに秀でていて、そういう自分に絶対の信をおける人もいます。自分を信じ切り、自分が絶対であり、自分のすることなすことはすべて正しいと信じ切っている非常に自我の強い人もいます。しかし自分に執着すればするほど自我は増大し、回りからは孤立して行きます。自分だけを信じているというのは何かもの悲しいのです。

 上に述べたように人間は信じることなしには生きられず、また不安定なものを信じてはいます。だとしたら人間は不動、至高、永遠、絶対な何かを信じざるを得ません。というより信じているという自覚もなくそこに頼り切っている状態が理想的です。

 神、仏、無、天、運命、自然、さまざまな呼び名でそれは呼ばれてきましたが、名前にこだわる必要はありません。大切なことは、それに頼り切ることによって不安定なものを信じざるを得ない不幸を逃れ、また自我というちっぽけで、取るに足らないものにすがっている哀れさから脱却することなのですから。頼っている人にそれは存在し、絶対的な意味を持ちますが、頼っていない人にはそれは存在しようもありません。信仰とはそのようなものです。

 信仰と宗教は切り離せない関係のようではありますが、宗教団体に属さない信仰ももちろん可能です。宗教は信仰の入り口ではありますが、信仰は個人の心の平安や精神的成長に不可欠な自然発生的なプロセスであり、本来宗教によって規定される類のものではないのかも知れません。

 さて、信仰が定まってくると、瞑想はその頼り切っているものと接する最も濃密な時間となります。幼児が母親に抱かれているとき安らぎを覚えるのと同じ安らぎと、そして勇気とエネルギーが瞑想によって得られるようになります。

1995年10月30日