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第57号 真理への瞑想 プルシャータ(努力)

 インド哲学に「プルシャータ」という二つの意味で使われる言葉があります。一つは人生で到達すべき目標という意味で、もう一つはその目標を達成するための努力という意味で用いられます。ダルマ(倫理)、アルタ(財産)、カーマ(愛情)、モクシャ(解脱)という、私たちの人生について、インド哲学が定める四つのプルシャータについてはよく知られています。

 目標は努力によって得られます。目標は努力の果実なのです。あえて結果とは言いません。果実です。我が師、スワミ・シバナンダ大師は「真の精神修行をしなさい、子供たちよ。」と、よく言われました。目標達成のための努力こそが真の精神修行なのです。達成すべき目標や価値がある。それは即ち努力を意味します。行動を意味します。知的でよく統制された動性(ラジャス)を意味します。

 そして全ての聖典は私たちにどんなタイプの努力をなすべきか、また目的に到達するために採用すべき行動はどんなものかという知識を提供しています。しかし、知識だけ蓄えて、実生活に生かされないのなら、それは全く無駄な知識になってしまいます。

 ヴェーダンタ哲学は無知(アビッジャ)に従う者は闇と屈従に陥ると述べています。そして知識(ビッジャ)に従う者は大きな闇と大きな屈従に陥ることになると続けています。この文章に始めてであったときは矛盾と混乱を覚えるのですが、努力を伴わない知識は人をよりエゴイスティックにし、その人自身を苦しめることになると言いたかったのでしょう。

 多くの輝ける聖者は無学でありました。彼らは学校へ行けず、サンスクリットの知識を持っていたわけでもありません。カルカッタの金持ちの家で召使いをしていたビハール村の少年がいました。その金持ちはある聖者に熱を上げ、彼の家をたびたび訪れていました。ご承知のように金持ちは常に召使をつれて出歩きます。そしてこの無学の少年も主人に連れられ、その聖者にたびたび出会うことになったのです。聖者に近づき、その言葉を聞き、その唄を聞くに連れこの少年は感化されていきました。少年は知識もなく、学校へも行かず、読み書きもできなかった。しかし彼は感動したのです。彼の心に聖者の言葉がしみ入って行ったのです。聖者とのひとときは次第に少年に聖者のように生活したいと熱望させるようになりましたが、少年はそれを心に秘めておきました。結局彼は召使でしかないのです。

 後にその聖者は重病にかかりました。金持ちは聖者に果物などの贈り物を続けました。金持ちは少年が聖者について奉仕したがっているのを見て取り、その心を思いやりました。そして何か贈り物をするときには少年にそれを持たして聖者のところへ行かせたのです。ついには少年が聖者と共に住むことを許しました。この無学文盲のビハール村の少年は後にその聖者の門弟になり、素晴らしい精神の希求者、苦行の人となったのです。彼の名前はラトゥ、そして彼自身偉大な聖者となったのです。このように無学な人でも偉大な人物になれるのです。彼はアドプタナンダ(驚嘆すべき人)と呼ばれました。

 私は一つの例を引用したに過ぎません。サバリは学校を出ていません。彼は学校を出ていないにもかかわらず聖者と呼ぶに相応しい格好の人物です。素晴らしい教学の天才でヴェーダンタにも通じているラーマ・ティルタは古びた貧しい村の出身で、やはり教育を受けてはいません。カビールは大学を出ていません。ジャナバイは召使でした。フンガナはブラフマンの地主のハリジャン召使でした。カナバは部族出身でした。ダルバは学校を出ていません。しかし彼らはどんなに知識が乏しかろうと、行動を起こしました。彼らは素晴らしい努力をしました。ハヌマンのラーマ神は知識よりも努力を喜び給うのです。彼らが何をしたかに関わらず、神は彼らを胸に抱きしめるのです。彼らが何をしたかは問題ではありません。

 プルシャータ、努力こそが実現の鍵です。私たちは少ししか知らなくても、それを実践に移すべきです。行なうことが知ることに先んじられるべきです。このように全ての聖人は述べています。この事実を深く考えようではありませんか。そして正しい努力に従事しようではありませんか。

スワミ・チダナンダ講話集ponder these truthsより要約

1996年11月26日