第41回 バガバッド・ギーター 11 行為によるヨーガ

  • バガバッド・ギーター……第三章(34~43) 行為によるヨーガ

 感覚器官には、それぞれの対象についての愛執と憎悪が定まっている。人はその二つに支配されてはならぬ。それは人にとって敵である。34

 自己の義務(ダルマ)の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。自己の義務に死ぬことは幸せである。他者の義務を行うことは危険である。35

 

 アルジュナはたずねた。

「それでは、クリシュナ。人間は何に命じられて悪を行うのか。望みもしないのに。まるで力ずくで駆り立てられたように。」36

 

 クリシュナは告げた。

 それは欲望である。それは怒りである。プラクリティの3つの要素(グナ)、すなわち暗性(タマス)、動性(ラジャス)、善性(サットヴァ)のうちの動性から生じたものである。それは大食で、非常に邪悪である。この世で、それが敵であると知れ。37

 火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるように、この世は欲望や怒りに覆われている。38

 智慧者の智慧も、この永遠の敵、満たし難い欲望という火に覆われている、アルジュナよ。39

 感覚器官と意識(マナス)と知性(ブッディ)は、欲望のよりどころであると言われる。それらは智慧を覆い、真我を迷わせる。40


 諸感覚器官は強力である。意識はそれら感覚器官よりも上位にあり、知性は意識よりも上位にある。しかし、知性よりも上位にあるもの、それが真我(アートマン)である。42

 それゆえアルジュナよ、あなたはまず感覚器官を制御し、理論における智慧と、実践における智慧を滅ぼすこの欲望という邪悪なものを捨てよ。41

 このように、知性よりも高いものを知り、真我を確固たるものにして、アルジュナよ、欲望という難敵を殺せ。43・・・三章おわり・・・

 

  • 解説……欲望という難敵

 35節は注目に値します。私たちが何かをしようとするときに、それが自分の義務なのか、他人がすべきことなのかを注意深く見極めなければなりません。チームを組んで仕事をするときや家事や子育てにおいても、自分の義務と相手の義務とは複雑に入り乱れています。他人の義務に踏み込めば、その人のなすべき行為を奪うことになりますし、そのことに気を取られて自分の義務を忘れることもしばしばです。自分の義務に集中していれば一日を忙しすぎず、暇すぎず過ごせるほどの仕事量が自分に与えられていることに気づくことでしょう。

 さて、世に絵や服装に気を取られる視覚人間、活字好きで話の内容に気を取られる聴覚人間、さらに味覚人間、嗅覚人間、触覚人間もいるでしょう。私たちは五感のどれかに気を取られ、執着し、ときにどうでもいいことを嫌悪したりして、自ら苦しみに陥ります。意識や知性は感覚器官より上位にあるとは言っても強力に影響を受けています。見栄えの良い政治家の言うことは正しく聞こえたりします。感覚的に好ましいものを知性で正しいと判断したりしているのです。

 しかし感覚器官や意識、知性から隔絶した高さにある真我を自覚するとき、執着や嫌悪、それらから来る欲望を超えることができるようになります。そのとき初めて知性は真理を知り、智慧を蓄えます。そのとき私たちは感覚器官に支配されてうごうごしている存在から、自分自身を支配し、永遠の幸福を手にする存在になりうるのです。

19966月4日