第12回 「禁戒③ 不貪」

 この食事法シリーズで参考または引用させていただいている「アーユルヴェーダ健康法」の著者、クリシュナ先生は食事中しばしば目をつむり、瞑想するかのように食べていらっしゃったことを思い出します。もちろん食卓は団らんや親睦の絶好の場でもあります。前回、一回の食事は24分程度で済ますということを書きました。ですから、24分間は食事に集中し、会話をするなら今食べているものの事に限り、一通り食べ終えてから、団らん、親睦するのが良いと思います。アーユルヴェーダの古典には食事中にしゃべったり笑ったりしないようにと記述されています。話やテレビに夢中になって何を食べたのか覚えていないというのでは、作った人に対しても、料理そのものに対しても失礼というものです。もちろん本来は行儀のことを言っているのではなく、食事自体を楽しみ、一品一品、一口一口を味わって食べることの大切さを説いているのです。十分に咀嚼し、舌で味わった食べ物は栄養学的な意味以上の栄養を人間に与えてくれることでしょう。またそれによって真に味わいのある食べ物を自然に好むようになります。それが健康につながることは言うまでもありません。

 

  • 瞑想ノート……禁戒③ 不貪(ふどん)

 欲望にとらわれないことです。子供がおもちゃ屋の前で「買ってぇ」と泣き叫ぶ場面をよく目にしますが、このとき子供は物欲そのものと化しています。わがままを言う子供に対して親は困り果てるのですが、一番困っているのは当の子供です。自分で自分をどうすることもできないでいるのですから。買ってもらえない、買って欲しいという激しい板挟みの中で泣き叫ぶしかないのです。大人でもこのようなことはしょっちゅう起こります。ただ子供のように気持ちに正直ではないので、平静を装いながらあの手この手を巧妙に使い、欲望を満たそうとします。満たされない欲望はますます大きくなり、満たされた欲望は次の対象を求め始めます。欲望を野放しにする限り、私たちは大きな苦しみの中に生活するようになります。

 欲望は誰にでもありますし、欲望を否定することは生きる意欲を否定することと言えるかも知れません。不貪の戒行はまず、自分の言動や発想の動機となっている欲望に気づくように自分の心を見つめるところから始めます。次第に自分の欲望を客観視できるようになり、意識と欲望の間に理性が保たれ始めます。自分の中に存在する欲望の一つ一つに対してこのような処理を行い、これを一生続けます。修行の結果、自分には欲望はなくなったなどと思いこみ、心を見つめる作業を怠れば、その時点から堕落が始まります。そういう意味で毎日の瞑想はどんな人にとっても欠かせないのです。

 食欲や性欲はフロイトがリビドーと呼んだような生命に直結した欲望です。これらをコントロールするにはヨーガの体操や呼吸法が有効です。また無節操な食欲や性欲がもたらす自他へ及ぼす悪影響をよく理解することです。少し高次の欲望、例えば金銭欲、名誉欲、支配欲、自己顕示欲などに関しては追い求めるのではなく、義務を果たした結果として与えられるものであるという摂理に目覚めることが大切です。追い求めて手に入れたものは、手に入れた後、言い得ぬ虚しさを覚えるものであるということも忘れないようにします。

 欲望は本来、私たちを向上させ、生を全うさせるエネルギーです。それが自我と結びついているときにいわゆる「欲望」となります。その意味で不貪の修行は自我から離れ、無我の境地に至る素晴らしい修行方法と言えるでしょう。

1995年7月22日