第60号 真理への瞑想「早朝ということ」

●真理への瞑想・‥早朝ということ

われは早朝に汝を想う

われは早朝に汝を崇拝す

われは早朝に汝に額ずく

 賛美と礼拝の言葉とともに、良く知られるアディ・シヤンカラチャルヤの詩が始まります。早朝の祈りや礼拝はどこが特別なのでしょうか。マハトマ・ガンジーはサバルマティ・アシュラムで未明に祈ったと言います。早朝という時間帯には何か特別なものがあるはずです。
 「神とともに一日を始めよ」と西洋では言います。また「早起き鳥は虫を得る」とも言います。早起きすればそれだけ私たちは時間を得るわけです。時間に余裕があれば、急ぐこともないし、焦ることもありません。焦ることがなければ緊張は少ないので健康に良く、心臓に良く、血圧や神経系にも良く、消化も良いでしょう。これは実用的な理由です。早起きするなら余暇を得ます。遅くまで寝ているなら時間に追われるでしょう。時間に追われてのスタートは良い一日の始まりとは言えません。
 しかし、もっと重要な意味があります。それは、早朝は私たちの心がもっとも善性(サットヴア)の状態にあり、内なる神である真我からの刺激をもっとも受けやすい状態にあるということです。このとき心は内省や、祈りに適した状態にあります。
 早朝の静かな時間が終わり、忙しい時間帯に入ると私たちの心は世間の方に引き寄せられます。つまり名前と形の世界、無常の世界に引き込まれます。そして心は目に見える世界、外的、物質的、現象的世界に占領され始めるのです。そうなると心は高い次元の刺激を受け入れる余裕がなくなります。しかし早朝においては心は睡眠という暗性(タマス)の状態からも、さまざまな仕事やいろいろな思惑に取り憑かれた動性(ラジャス)の状態からも解放されています。
 眠りの状態も、完全に頭が働き始めて俗事に巻き込まれた状態も不完全です。しかし未明の短い時間においてのみ、私たちはそれらから解放されているのです。ですから未明は私たちが自分自身を神様の位にまで引き揚げ、そこに没入するのにもっとも快適で、もっとも好都合な時と言えます。そしてこの時にのみ、私たちはそれから始まる一日を調整できるのです。それが神性に目覚めながら世俗に存在できる秘訣です。内側に静寂と無行動を保ちながら世俗に関わる秘訣です。


朝、神と出会った
  その日の最高のひととき
神は日の出のように
  私の胸の栄光のように現われた

一日中、消えることなく
  一日中、私と共にあった
私たちは苦難の海を
  完全なる静寂の内に航海した
私は秘密を知り得たようだ
  苦難の道から多くを学んだ
朝、神を探しなさい
  一日中、神といたいなら
-Ralph Cushman―
スワミ・チダナンダ講話集 ponder these truth より 訳 土江正司

1997年1月10日

第59号 真理への瞑想 「今日を完全な日にしよう」

  • 真理への瞑想……今日を完全な日にしよう

 最愛なる祝福された魂たちよ。

 今、私たちは今日という黄金の日の始まりを向かえました。今日一日、私たちがより高く、より神聖で、より幸福であることを見出せますように。思考、言葉、行動を吟味しながら一瞬一瞬を生き、自己実現と神的完全性というゴールにより近づけるよう祈ります。

 今日とは過去にあった日ではなく、そして二度と来ることのない日です。今日という唯一の日の意味を深く考えましょう。過去のどんな日とも、未来のどんな日とも比べられない今日について、その特殊性、その特別性を考えましょう。今日とは神の一部です。神は無始にして永遠ですが、一日は人間の限られた意識によって計られ、昨日、今日、明日という観念に束ねられた小さなユニットなのです。

 今日という日を天高く掲げる梯子にしなさい。賢くこの日を過ごし、朝と同じ自分を夕方発見して一日を終わることのないようにしなさい。あなたはこれまで生きてきて、いろいろな機会を賢く利用し、高尚な義務に応答し、まわりで起こる出来事に理想的に対応し、そして自分自身を豊かなものにしてきました。それと同じやり方で今日のこの日を突き進みなさい。この日を唯一のものに、思い出深いものになさい。この日を豊かに、あなたを豊かになさい。

 今日という日は神からの贈り物です。特別にあなたに贈られたものです。両手で恭しく受け取ってください。あなたのエネルギー、知性、精神、感性、身体の全てを、この日を完全な日にするために使いなさい。あなた自身は神と同格であることを知り、焦らず、慌てず、自らの理想の人生を成就するために静かに決意に満ちた生活をしなさい。しかし同時にあなた自身を発展させる過程において大いに活動的であるように。「もし今日を有効に使えないなら、明日はちゃんとしよう。」という考えは捨てて、今日一日を最高に活用する決意をしなさい。穏やかで静かな決意をしなさい。この日は決意の日であり、同時に穏やかな日なのです。

 ウパニシャッド(奥義)に次のようにあります。「その日を自分の体があたかも土に埋められて、そして既に自分の魂は神のもとへ上ってしまったかのように過ごしなさい。その魂とともに過ごしなさい。あなたの肉体は死んだのです。どんな誘惑も攻撃も、粗雑で肉体的などんなことも、もはやあなたに関係ありません。どんな感覚もあなたを煩わすことはありません。」また、別の奥義には「毎日を自分の最後の日と思って過ごしなさい。明日は日の出を見ることはないのです。」とあります。もし今日の日が自分に与えられた最後の日であるなら、あなたはどんなにか今日を大切にするでしょう。どんなにこの日に価値があるかを考えるでしょう。最高に高く、高貴で、完壁なものでこの日を満たすでしょう。

 これらの奥義がもたらす思想は、今日という、神から与えられた贈り物と、あなたを関係付ける基礎です。今日という素晴らしい贈り物は常にここにあります。私たちはそれに100%頼ることができます。そして寝る前に明日一日の計画を立てることができます。例えば「明日をすばらしい日にしよう、神聖な日にしよう、完全なる神の意識に精神を高めよう。見、聞き、触れ、味わい、匂い、考え、感じ、行動する、その全てにおいて充足し、崇高であるように。一日の全ての瞬間が神の崇高さの表現であることを確認できるような過ごし方をしよう。」というように。これが幸福の鍵です。これが完全性への確かな道です。これが失敗することなく進歩し、確実に成就する秘訣です。

1996年12月10日

第58号 ごま油のマッサージ

1、やり方

   油はサラダゴマ油(ゴマを生しぼりした油、においがあまりない。炒ってから搾ったものは焙煎ゴマ油といって、ゴマ特有の匂いがする)を使用します。本来は全身をマッサージしますが、他人の助けを借りたり、専用の施設が必要だったりしますので、簡単で効果の高い、3点マッサージを紹介します。


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②油を少量手にとって頭のてっぺんに擦り込み、毛髪全体に広がるようにマッサージします。①マッサージ用に小さい土鍋を購入しそれに10cc程度の油を入れて、数秒間火に掛け、45℃程度に温めます。

③耳全体に擦り込みます。肩こりには肩に、腰痛や膝の痛みなどにも、その部分に塗ってみます。

④足首から足の裏にかけて全体的にマッサージしながら擦り込みます。

⑤軽く、ティッシュやペーパータオルで拭き取って、専用のスリッパを履きます。これは床が汚れるのとスリップ防ぐためです。

⑥マッサージ後、30分~1時間程度おいてから、入浴します。その頃には油はかなり肌に吸収されていますので、風呂を汚す心配もあまりありません。入浴やシャワーで十分、汗を流すことが効果を高めるコツです。シャンプーや石鹸で、薄く油分が残る程度に洗い流します。

*鼻炎にはゴマ油を小指の先につけて、それを鼻の穴に垂らし、勢い良く吸い込みます。これを日に2~3回行うことで症状が軽減し、風邪の予防にもなります。

 

2、ゴマ油マッサージを行うときの注意点

 食事の直後、熱があるとき、どこかが炎症を起こしているとき、生理中はゴマ油マッサージを控えます。それ以外はできるだけ毎日行います。陽転反応により、最初2~3日、返って体が重たい感じになる場合がありますが、一週間は続けるべきです。ゴマ油は紫外線によって有害な過酸化脂質に変わる恐れがありますので、日に当たりやすい人は、顔や手の甲には塗らないようにします。顔にはスクワランやホホバオイルをお勧めします。

 

3、効果と理論

 ゴマ油の有効成分は五分間で脊髄にまで浸透します。その途中で、体内にたまった病気のもとであるアーマ(老廃物)を分解・中和し、それを汗として体外に排出します。また、ゴマ油はストレスや緊張、疲れ、寒さなどによって体内に蓄積されたヴァータ(風の要素)を中和する最も有効な薬であるとアーユルヴェーダでは説明しています。そのため、ゴマ油マッサージを行うと、「リラックスして、ストレスがなくなった感じがする」、「体と気分が楽になった」、「頭や目の疲れがとれる」、「不眠症が改善した」という声が聞かれるようになります。

 ゴマ油には老化の原因である過酸化脂質の生成を抑えるセサミノール、細胞の代謝を活性化させるセレニウム、育毛によいアントシアン色素、ナイアシンなどが含まれています。また食しても骨粗鬆症、貧血、生理痛、肝臓障害に効果があると言われています。

1996年12月7日

第57号 真理への瞑想 プルシャータ(努力)

 インド哲学に「プルシャータ」という二つの意味で使われる言葉があります。一つは人生で到達すべき目標という意味で、もう一つはその目標を達成するための努力という意味で用いられます。ダルマ(倫理)、アルタ(財産)、カーマ(愛情)、モクシャ(解脱)という、私たちの人生について、インド哲学が定める四つのプルシャータについてはよく知られています。

 目標は努力によって得られます。目標は努力の果実なのです。あえて結果とは言いません。果実です。我が師、スワミ・シバナンダ大師は「真の精神修行をしなさい、子供たちよ。」と、よく言われました。目標達成のための努力こそが真の精神修行なのです。達成すべき目標や価値がある。それは即ち努力を意味します。行動を意味します。知的でよく統制された動性(ラジャス)を意味します。

 そして全ての聖典は私たちにどんなタイプの努力をなすべきか、また目的に到達するために採用すべき行動はどんなものかという知識を提供しています。しかし、知識だけ蓄えて、実生活に生かされないのなら、それは全く無駄な知識になってしまいます。

 ヴェーダンタ哲学は無知(アビッジャ)に従う者は闇と屈従に陥ると述べています。そして知識(ビッジャ)に従う者は大きな闇と大きな屈従に陥ることになると続けています。この文章に始めてであったときは矛盾と混乱を覚えるのですが、努力を伴わない知識は人をよりエゴイスティックにし、その人自身を苦しめることになると言いたかったのでしょう。

 多くの輝ける聖者は無学でありました。彼らは学校へ行けず、サンスクリットの知識を持っていたわけでもありません。カルカッタの金持ちの家で召使いをしていたビハール村の少年がいました。その金持ちはある聖者に熱を上げ、彼の家をたびたび訪れていました。ご承知のように金持ちは常に召使をつれて出歩きます。そしてこの無学の少年も主人に連れられ、その聖者にたびたび出会うことになったのです。聖者に近づき、その言葉を聞き、その唄を聞くに連れこの少年は感化されていきました。少年は知識もなく、学校へも行かず、読み書きもできなかった。しかし彼は感動したのです。彼の心に聖者の言葉がしみ入って行ったのです。聖者とのひとときは次第に少年に聖者のように生活したいと熱望させるようになりましたが、少年はそれを心に秘めておきました。結局彼は召使でしかないのです。

 後にその聖者は重病にかかりました。金持ちは聖者に果物などの贈り物を続けました。金持ちは少年が聖者について奉仕したがっているのを見て取り、その心を思いやりました。そして何か贈り物をするときには少年にそれを持たして聖者のところへ行かせたのです。ついには少年が聖者と共に住むことを許しました。この無学文盲のビハール村の少年は後にその聖者の門弟になり、素晴らしい精神の希求者、苦行の人となったのです。彼の名前はラトゥ、そして彼自身偉大な聖者となったのです。このように無学な人でも偉大な人物になれるのです。彼はアドプタナンダ(驚嘆すべき人)と呼ばれました。

 私は一つの例を引用したに過ぎません。サバリは学校を出ていません。彼は学校を出ていないにもかかわらず聖者と呼ぶに相応しい格好の人物です。素晴らしい教学の天才でヴェーダンタにも通じているラーマ・ティルタは古びた貧しい村の出身で、やはり教育を受けてはいません。カビールは大学を出ていません。ジャナバイは召使でした。フンガナはブラフマンの地主のハリジャン召使でした。カナバは部族出身でした。ダルバは学校を出ていません。しかし彼らはどんなに知識が乏しかろうと、行動を起こしました。彼らは素晴らしい努力をしました。ハヌマンのラーマ神は知識よりも努力を喜び給うのです。彼らが何をしたかに関わらず、神は彼らを胸に抱きしめるのです。彼らが何をしたかは問題ではありません。

 プルシャータ、努力こそが実現の鍵です。私たちは少ししか知らなくても、それを実践に移すべきです。行なうことが知ることに先んじられるべきです。このように全ての聖人は述べています。この事実を深く考えようではありませんか。そして正しい努力に従事しようではありませんか。

スワミ・チダナンダ講話集ponder these truthsより要約

1996年11月26日

第56号 フォーカシング

  • フォーカシング

フォーカシングとは自分の中の本当の気持ちに気づくための一種の瞑想法です。心の内側から浮かび上がってくることに耳を傾け、その一つ一つを図のように入れ物に入れて行きます。中には収まりきらずに、口から溢れたり、全く入れ物には入らず、そのイメージが直接現れたりもします。

 最初は上手な聞き手(リスナー)の誘導を受けながら、気持ちを探って行きますが、なれるに従い、自分一人でもできるようになります。

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気になることをいろいろと思い浮かべ、それを入れ物に収める試みをした後、最も気掛かりなことに焦点を当てて見ます。そのことを思ったとき、胸やおなかの辺りに何を感じるでしょうか。「棘の生えた鉄の玉」を感じるかも知れませんし、「煙を出している壺」のイメージがそのまま実感としてあるかも知れません。そうした体の中にある感じ(フェルトセンス)を、胸の前あたりまで引っぱり出すことで、自分とのあいだに間を置きます。

 それをじっと見つめたり、それが自分の中のどんな気持ちを表しているのか尋ねてみたりします。するといろいろな気づきが生じながら、フェルトセンスが変化(シフト)して行き、終いにはごく軽い感じになって、体も心もすっきりします。

1996年11月23日

第55号 真理への瞑想「自らの神性を忘れてはならない」

  • 真理への瞑想……自らの神性を忘れてはならない

 光り輝く不滅の魂よ。神により祝福された最愛の子供たちよ。あなたは自分自身が不滅の魂であり、永遠の光であることを忘れてはなりません。

 私たちの脳の内側にある意識、知性、感情、記憶、欲求、想像力などのさまざまな働きは、自らの神性に気づくために必要ではありますが、多くの場合、自分自身を束縛し、不調和や摩擦や戦いを生み出す要因になっています。これら脳の内側の働きはむしろ私たちの神性の顕現を邪魔する、少々やっかいな障害物として認識されるべきです。

 そうした自らの神性を覆い隠す力にもかかわらず、あなたはあなたの神性を確信しなければなりません。私たちは神の子であり、本質的に神の性質を持っていることを忘れてはなりません。もし十回忘れることがあったら、十回思い出しなさい。百回忘れるなら、間違った考えを捨てて百回思い出しなさい。精神修行を続けなさい。あなたは不滅の魂、永遠の光なのです。

 木や石、雨や風など、私たちが見、聞き、味わい、匂い、触れるもの全ては神の原理に満たされています。もし、あなたの内なる障害物に打ち勝とうと望むなら、これら自然の中からパワーを引き出せば良いのです。

 聖典を繰り返し読むのも、内なる障害物に打ち勝つ有効な方法です。手元に聖典がないときでも、短いフレーズを覚えておいて、心の中で、または声に出して唱えれば、たちまち私たちは元気づけられ、内的な雰囲気は変わります。聖典の中の短いフレーズは、即、力なのです。例えばバガバッド・ギータの中に、

「汝は決して生まれず、死ぬこともない。汝は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が死んでも、汝は死ぬことがない。」2-20

とあります。またグル・ギータには、

「その御方は純粋なる意識、永遠で、平和で、汚れを超越している」

と書かれています。これらのフレーズを思い起こすとき、私たちは自分自身が、名前と形のこの世界を超え、無垢の純粋な存在、粗雑で物質的な全てのものや空間をはるかに超越した存在の一部であることに改めて気づくのです。

 また、祈りを創造的かつ力強くすることも大切です。祈りとは私たちを常に覚醒の状態に留めおくことであり、内なる神との関係を維持できるよう願うことであると理解するべきです。神が創造したものに頼むのではなく、内なる神自身に願うのです。それにより神とあなたとの絆はいっそう強くなり、その関係は決して邪魔されず、閉じられず、断たれることがなくなるでしょう。その関係は常に開き、神の性質は常にあなたに流入し、あなたの意識に暗示し続けるでしょう。

 これが最も高尚な祈りです。世間に対して何かを求める祈りではありません。あなたと神との絆がもっと強く、もっと太くなるように祈るのです。この祈りはあなたの覚醒状態を高め、偉大な力を常にあなたにそそぎ込みます。あなたは欠けることのない光、力、智恵を持つのです。あなたはこの上ない神の恩寵を得るのです。

スワミ・チダナンダ講話集ponder these truthsより要約

1996年11月16日

第54号 真理への瞑想「ヨーガとヴェーダンタ哲学」

  • 真理への瞑想……ヨーガとヴェーダンタ哲学

 私たち(インド人)は先祖から二つの素晴らしい財産を受け継いでいます。それはヨーガとヴェーダンタ哲学です。ヴェーダンタ哲学とは神からの直接的な知識と智恵であり、ヨーガとはヴェーダンタ哲学を体得するための科学的な方法です。

 ヴェーダンタ哲学は大胆に宣言します。「我は神なり。我は形なく、その本質において全てに普遍である。」また、「我は感覚を超え、心を超えた、輝かしくも賢明な意識の本随である。」と。

 ヴェーダンタ哲学における最も重要な主張は「あなたは神そのものである」ということです。あなたは不完全で、有限な、ただの人間ではない。あなたは本質的に神そのものなのです。あなたの真実の姿は神なのです。あなたの人間としての性質は一過性で、一時的にあなたに付け加えられた属性に過ぎません。もちろん、その人間としての性質も大変重要ではありますが。

 あなたの本質は外見とは異なります。外見は常に移り変わる一過性のものです。名前や形といった外見を超えたところに、光り輝く絶対的な存在、絶対的な意識、そして至福というあなたの本質があります。この存在、意識、至福(sat-chit-ananda)こそがあなたの本質、真我、即ち神なのです。あなたは決して、くだらない、無価値な存在ではありません。

 あなたが自己の本質である真我に近づくにつれて、不安、痛み、苦しみ、困難、執着、悲しみ、戸惑い、恐れから解放されて行きます。そしてついには、壊れることのない、永久の喜び、穏やかな平和と至福に至ります。それこそがあなたの本質です。

 神は全てに行き渡っています。全ての名前と形あるものの中に潜んでいます。全ての創造物において最も重要な中心を占めているのが神です。地球上には数の上で人間を上回る、無数の生物が住んでいます。しかし、昆虫や爬虫類、魚、鳥、獣といった身分では、自己の本質である神を理解する能力も、神を実現する能力も持ち得ません。ところが人間は感じ、考え、理由付けすることができ、自己実現や自己を直覚するための合目的的な行動を行う能力を持っています。

 つまり、人間の意識や知性は、神を経験できるだけの能力を持っているのです。その能力を正しい方向に、効率よく利用すること、それがヨーガにおける重要事です。つまりあなたの本質、真我、内なる神と常に接し、常にそれと関係しながら生きて行くこと、それがヨーガなのです。

スワミ・チダナンダ講話集ponder these truthsより要約

 

  • 解説……サット・チット・アーナンダ(存在-意識-至福)

 ヴェーダンタ哲学とは古代インドのバラモン教聖典群である『ヴェーダ』の奥義を表わし、インド哲学の根幹を成しています。「ウパニシャッド」という言葉もヴェーダンタ哲学と同義です。

 本文にあるような、内なる神(真我、アートマン)と絶対神ブラフマンとは合一であるという考えは、7世紀前半にシャンカラという哲学者によってまとめられた、不二一元論の影響を受けています。これに対し、信仰によって崇められる神と真我とは別である、という二元論も存在しています。いずれの考えも仏教に大きく影響を与えていますし、宗教全般を理解する上でも最も重要な思想です。

 サット・チット・アーナンダとは真我がどのようなものであるかを言い表した言葉です。サットとは名前や形という無常を超えた絶対的存在、チットはこの宇宙や大自然をつかさどる法則、あるいはとしての絶対意識、アーナンダとは全ての物の本質であるところの、この上ない幸福、愛を表しています。

 ところで本文では地球上の生物の中で人間のみが神を知り、神を実現する能力を持つように言っていますが、最近のイルカやクジラの研究は、そうした人間の思い上がりに疑問を投げかけています。

1996年11月4日